世はイエス様を十字架に架けます。
イエス様の御前で人間のすがたというのが、明らかになっていきます。神から外れているという罪の現実がつきつけられるのです。イエス様の言葉をふりかえればふりかえるほどに、神様の心をいかに無視してしまっているのか気づきます。
イエス様への信仰に立つとものの見え方が変化します。自分の立ち位置が変わるということを体験することができます。
にもかかわらず、ずっと変わらずに、群衆に扇動され、ピラトに抗うことができず、負の心に導かれ、そこにおられるキリストを殺してしまう。
それが2000年前に起こったことであり、いまこの私においても起こってしまっていることです。
もちろんイエス様を殺すということは物理的にできません。
しかしながら、イエス様の心、命への配慮を欠いていくということは起こっています。信じていると言葉では口にしながら。
イエス様が大切にされたものを大切にすることができない。
それは死んでいるということです。
肉においては生きていますが、霊においては死んでいるのです。生きる屍ということがありうるというのが聖書の世界観です。
私たちの霊は、主イエスのご存在によって、悔い改めが与えられて、方向性をただされ、主イエスが見ておられることを日に日に見えるようにしていただいています。
しかし、信仰を与えられているものでさえ、目が曇らされ、本当に大事な本質が見なくなってしまう瞬間。死んでいるときがあります。
使徒ペトロが「イエス様のために死にます」と言いながら、目の前に危機がやってきたら、簡単にイエス様を裏切ってしまったように。
イエス様が大切にされているものを、イエス様との交わりの中で、臨場感をもって、すぐここにイエス様がおられることを黙想しながら、主イエスご自身の手から大切なものを受け取る。
それとも別の何かの判断に従ってしまうのか。
そういう問いかけが常になされるのです。
イエス様がおっしゃられていることに従うことができなった群衆は、イエス様を十字架に架けるという方向にみんなで向かっていってしまいます。群衆はイエス様の言葉を聞き、その奇跡を目の当たりにしてきました。さらに、その中には主イエスに対する信頼の言葉や心をささげたものもいました。
しかし、ユダヤの中枢が、律法学者ファリサイ派、力あると考えられていたものたちが、主イエスを排斥する方向に向かうときどうなるでしょう。
みんなその方向に向かって、右に倣えです。
イエス様は全く弱いものの姿をもって、この地上を歩まれたので、イエス様1人対、巨大な組織、そしてローマ帝国。
もはや弟子たちの誰も対抗する力などなかった。
そこで、天の父の御心はすべてこの弱さの極みにある主イエスにしめされるのですが、人々はその主の姿を見ません。
フィリピの信徒への手紙2章にキリスト賛歌という歌があって、これこそがキリストご自身の姿をはっきりと指し示す詩となっています。読みたいと思います。
キリストは
神の形でありながら
神と等しくあることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして
僕の形をとり
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ
へりくだって、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで
従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピの信徒への手紙2:6~11、新約355)
私たちは幸い聖書を手にとって、この霊的な洞察力にもとづいた使徒たちの言葉をもとにキリストが見えるようになっています。
しかし、当時の世界の中で、みんながキリストを十字架に架けるという決断をする空気の中、ただ弱さの中に立っている主イエスをみて、そこに神を見出すことができたでしょうか。
この群衆と同じように「十字架にかけろ、十字架にかけろ」と叫んでいたのではないでしょうか。
自分を守るために、空気にあわせるために、神の力ではなく、巨大に見える人間の組織の力に翻弄される。
神様が見せてくださっている。イエス様が指し示してくださっているもの。その道というのがあります。それは主イエスとのかかわりの中で、主イエスの方を向きながら、イエス様との祈りの中にはいっていかないと決して見えてこない道です。
イエス様がその御顔を向けて、この私に指し示してくださっているその道です。
それは静かに聖書と向き合って、自我と向き合って、主イエスのもとにある自分を見出した時に、見えてくる視点です。
黙想がなければこの道は見えません!
だから、主の御前に黙想していないクリスチャンはほぼキリスト者の道を歩んではいないでしょう。
そういったものが見えてこないかぎり、主イエスご自身から、これが本質で大切なことだよということを受け取らない限り、この当時の人たちと同じように、こっちの人がああ叫び、力ある人々がこう言い、群衆の叫び声によって、無実のイエス様を十字架にかけ、重犯罪人であるバラバを釈放するという恐るべき倒錯に入り込んでしまうのです。
ピラトという総督はイエス様が無実であるということを確信していました!
だから、「まさかバラバを釈放するなどということには至らないだろう」と踏んで、恩赦で主イエスを釈放するのか、それともバラバを釈放するのかと問うたのです。
本質が見えているうちに、そのまままっすぐに本質に対して、心のそこから湧き出してくる本音の本音、本心で向き合わないとどうなるのか。
まさかこんなことはおこらないだろうと思っていた悪い方向に転んでしまう。
奇跡というのは私は起こるべくして起こっていると思います。スポーツにおいては常に奇跡が起こりますよね。なんでこんなドラマがって。スポーツの世界って最高ですよね。まさに神からの賜物。しかし、そのドラマは起こるべくして起こっていますね。彼らの純粋な思いの積み重ねと信仰に基づいて、しかも本人だけの信仰に基づいてではない。いろんな人たちが彼らを信じて願いをそこに注ぎつづけるので、起こるべくして起こるべき奇跡が起こっています。
しかし、それは逆にネガティブなことにおいても、奇跡のようなことが起こる。逆の負の状況というのは、転げ落ちるように不作為によって落ちていくということが起こります。
私たちは使徒信条においてポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けと毎週告白していますが。ピラトにとってはなんと不名誉なことなんだと思います。
彼は自ら望んでイエス様を十字架に架けようと思っていた人ではありません!
しかし、不作為でありながらも、この群衆を何とか治めねばという思いに基づいて、本質を曲げてしまった。真実がわかっていながら、スルーしたのです。それによって落ちていった。
さらに、妻を通して彼は妻の夢によって神様からのメッセージを受け取るチャンスを得ていたのです。それをみすみす通り過ぎてしまった。
こういった姿からすると、私たちは不作為によって通り過ぎてしまって、それで大変な罪の中に巻き込まれてしまうということが起こるものであるのだなということを学ぶことができます。
私は神学校で「フィリピの信徒への手紙」を自分の研究テーマとして掲げました。その当時からここに福音の神髄と魅力があると感じ取っていたのでしょう。しかし、あの当時の論文って人に見せられないようなものでしかありません。それで修士号を教授からいただいたのですが、もうその論文を見たくないというのが本音です。
しかし、年月を経て、14年も経って、今この心でパウロの心を、メッセージをバシッとやっと受け止めるという瞬間を今毎朝経験しているように思います。
今の私の感覚は14年間も無視して無視して無視しつづけて、力を受け止めることができずに、やっといろんな出来事を通して、この言葉が自分の内側で響き始めるという。14年もの間罪を犯し続けて、しかし、それを主がお赦しくださっていて。。。
パウロが語っていたように、例え牢獄の中に居ようとも、この場所が福音が響きだす場所として神様がご準備されたのだということ。福音が響きだし、喜びが満ちて、この牢獄の闇の中から、ここに仕えることになっているローマ兵たちに、その命が伝えられ、その命を通してローマ全体への視野が主の中にはあること。それをパウロは全く見えていませんが、その計画があるということ。
極東のこのアジアにいる2000年後のこの時に、私をパウロの子どもとしてくださいというほどに、惚れてその後をついて行かせてくださいと願っている人々が現れること。
福音は鎖につながれてはおらず、信じるもののところで驚くべき成長と爆発をとげるということ。
我々が気づこうとすれば、この場所に福音を聞くことができる。
神がここにおられ、私の内側のその響きが響きだすということを経験できる。そのために、様々な出来事があった。
14年もの停滞を経験して、聞くべきことをスルーし続けてきたこと。これも牧師としては超ネガティブな内容ですが。見ようとすれば、その間に主が忍耐されて忍耐されてということが見えてくる。その忍耐を通して主がお語りくださり私へのご愛をしめしてくださって、主が共におられることがわかる。
最低最悪な現状であっても、そこに主の語りがあるのではないか。
ポンテオ・ピラトに対しても主の語りかけがあった!
この聖書の箇所で赦免を受けて、解放されるバラバ。彼の身体は自由にさせられました。
主はこのバラバにポンテオ・ピラトに対するものと同じように語りかけたのではないでしょうか。その後のバラバについて記されているものは聖書の中にはありませんが、その後のバラバについては気になりますよね。
私はこう推測します。「彼は一生このイエス様についての黙想を重ねたのではないか」。
なぜなら、彼はローマによって処刑されても仕方がない罪を確かに犯していた。政治的な重犯罪人として殺人を犯していた。しかし、このイエス様は全く罪を犯してはおられなかった。
にもかかわらず、何一つ言葉を発することなく十字架への道を自ら望んでいるかのように、歩んでいかれた。
処刑されるべき自分が放置され。何も罪を犯していないのに、自ら死ぬ方向に歩みはじめたイエス様。
弟子たちに様々なことを聞きに彼は行くしかなかったのではないか。
(聖公会の司祭である下原先生の文章を是非読んでみてください。→「罪人バラバ、その後」で検索)
「なぜなのか。」
そこにぽっかり穴が空いて何十年。。。
それであったとしても、その空白というのは、主イエスの心を目いっぱいにうつすための空白。
そこから探し、見つけるのです。
フィリピの信徒への手紙を受け止めたと思いこんで、実際は全然受け止めてなくて何十年。。。
でも、この向き合うための空白が必要。
この内側で福音が響き始めて力を放ち、光を放ち輝きはじめるための日々。
本当にただマイナスだけの出来事なのでしょうか。そこには神のご計画があるのではないでしょうか。誰かが私の中に輝く光を信じてくれているのではないでしょうか。アーメン。