2022年7月10日 主日礼拝説教 マタイによる福音書22:15~22 「心をご覧になる主」石井和典牧師  

 イエス様の言葉というのは、不思議です。私たちがまっすぐに受け止めて応答すると、恵みが驚くほどに溢れだしてきます。人生全体が変わります。人が変わります。

 しかし、受け止めず、反応しないと。もしくは、曲がって反応すると、何も起こらない。

 

 何も起こらないというか、主が願われていないことが起こり続けるというか、大変なことになります。ざっくり言うと、イエス様を無視していると最終的には大変な滅びにいたりますよということが聖書に記されていることです。

 新約聖書の時代にイエス様を無視したり、敵意を抱いていた人は、神である主イエスを十字架にかける方向に行ってしまいました。

 これは言い換えると「神殺し」を意味するわけです。大変な破局にいたる道でした。

 しかし、それを主は救いへの道へとしてくださいました。驚くべきパラドックスが示されたわけですね。キリストを十字架にかける道が救いへの道であったと。

 

 全世界の主権者を十字架にかけたということが人類がした恐ろしい結末でありました。しかしそこで、示されたのは。人類に対する神の恐ろしいほどに深い愛でした。

 

 そんな神殺しをした現場からでも、主に立ち返って救いを見上げるものは救われると。

 

 

 おかしくなってしまった人たちは、ユダヤ教の力ある人々でありました。 

 ファリサイ派の人々もそうですし、ヘロデ派の人々もそうです。

 ファリサイ派、ヘロデ派、彼らは考え方がかなり違う人々です。普段は敵対関係とも言うべき感じだったのに、イエス様を殺そう、神を殺そうというところで一致してしまいます。

 イエス様を罠にかけようとします。

 

 というのも、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という「選ばれていない方」にイエス様がユダヤ教の主要な人々を入れておられるということを彼らは感じ取っていたからです。

 

 自分たちの体制を守るために、預言者たちを追い出し、神様の言葉に従っている体はとっていたけれども、実際は自分たち自身が守られることを考えていたので、イエス様を真っ向から批判していきました。

 

 イエス様は自己保身の思いから抜けだすことのできないユダヤ教の人々を呪いもされました。イチジクの木を呪われたという箇所がありましたが。イチジクの木は実りを実らせるべきユダヤ教のことを指してイエス様がおっしゃられたことでありました。実を実らせないのならば、命を宿さないのならば枯れてしまえということです。

 道端に一本のいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、木はたちまち枯れてしまった。(マタイによる福音書21:19、新約40)

 

 彼らはイエス様を陥れて、殺すために言葉を発しました。死に向かっていました。

 しかし、表に現れている言葉というのは、イエス様を敬っているというような言葉でした。その魂胆にはどす黒い暴力性、すなわち死がありました。命の祝福はありません。

 イエス様がおっしゃられた一言でわかります。イエス様はこのようにおっしゃられました。

 エスは彼らの悪意に気付いて言われた。「偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。(マタイによる福音書22:18、新約42)

 「偽善者たち」と呼びかけています。これはギリシャ語でヒュポクリテースと記されているのですが、「役者」というような意味です。心の中は違うのに、表面を繕っているものたちというような意味合いです。

 

 神様がお嫌いになられているのは、「蛇」です。舌が分かれているものです。二枚舌です。表ではうまいこといっているのだけれども、内側は恐ろしい暴力性を隠しているとか。

 そういうことを主なる神はお嫌いになられているのです。

 税金をおさめるかどうかという話しをふっかけてきたわけですが。この話しというのはユダヤ人の中でも非常にセンシティブな話しだったのです。

 なぜなら、多くのユダヤ民族が、ローマの支配の中で、ローマの貨幣を使わなければならない状態を嘆いていたからです。ローマの貨幣が税金としておさめられていく。そのローマ帝国、皇帝の支配に対して、良い思いを持っていない人がかなりの数いたということです。

 だから、税金を納めることを全面的に肯定するようなことを言ってしまったら、群衆の心がイエス様から離れていってしまうであろうことが予測されました。

 

 だからといって、逆にローマ皇帝に税金を払うことを、拒否せよと言ってしまったら、ローマに対する反逆罪でつるしあげられるわけです。

 彼らは、この問いかけによって、どちらに応えたとしても、イエス様が民に嫌われ排除されるか、ローマの官憲に目をつけられるかということを狙ったわけです。

 悪いですね。死の思いです。

 

 こういう思いを抱える、礼拝者はもはや礼拝をしていません。神を前にしていません。

 

 自分の立場を守るための発言をしているものたちは、イエス様がどのようなお方であるかという讃美の声をいくら発したとしても無駄です。それは讃美ではなくて、主を侮辱するものとなってしまいます。彼らが発したイエス様に対する言葉というのは以下のような言葉でありました。

 そして、その弟子たちをヘロデ党の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方だと知っています。人に分け隔てをなさらないからです。(マタイによる福音書22:16、新約42)

 真実な方、真理に基づいて神の道を教え、人を分け隔てなさらない。まさに、イエス様の讃美すべきところ、そのポイントをしっかり押さえていて、事実であり、真実である言葉で、イエス様をたたえているようにも見えます。

 

 しかし、内側にある魂胆が「死」に向かっているのです。人間は自分が志した方向に進みます。イエス様は、たった一言で、本質の本質をあらわする言葉によってお応えになられました。

 

 エスは彼らの悪意に気付いて言われた。「偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。税金に納める硬貨を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイによる福音書22:21、新約42)

 

 この答えは、完全無欠な応えです。ここにいる人たちすべてを黙らせる言葉。そして、この言葉の完全さの前に屈服して跪くならば、彼らに道は与えられたはずでした。

 

 納税の義務を肯定しました。神がその権威を立てておられること。しかし、その権威がすべて神に帰されるものでなければならないこと。神のものはすべて神に返すこと、最終的には主にすべてを返すこと。

 

 主イエスの知恵深い答えは、世の権威と天の御国を二者択一にして、どちらかだけを選ばせようとするファリサイ派の人々の魂胆を打ち砕きました。

 悪い心というのは、神に打ち砕かれて何も残りません。後世によい影響などない。しかし、神の言葉は違います。イエス様の心は、これから先の民もどのように生きるべきかということをも指し示していきます。

 世の権威と天の御国は相互に排除的ではないことが示されています。神の民は、世の国々の市民として義務を果たしつつ、十分に御国の民としてい生きることができます。

 それが記されているのが、ペトロの手紙です。

 すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。それが、統治者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し、善を行う者を褒めるために、王が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな人々の無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由人として行動しなさい。しかし、その自由を、悪を行う口実とせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、きょうだいを愛し、神を畏れ、王を敬いなさい。(ペトロの手紙Ⅰ 2:13~17、新約420)

 

 この世の制度やたてられている権威に従う。

 この世界のすでにあるものとの対話をやめるわけではなくて、その中で生きていく。ルールをしっかり守って平和に。しかし、そこで主のために、主が与えてくださる善を何があっても行い、誤っている人々がもしいるのであれば、対抗して悪を行うのではなく、自分自身が善を行うことによって悪の口を封じる。これこそが神の御心であると記されています。

 

 支配権を持つもの、統治者が現れます。しかし、それにむやみに反発するのではなくて、その中に神の秩序があることを認め、その中で、主が願われる善を行う。背後ですべてを支配し、やがて完全なる状態へと導いてくださる全能の神を信じる。全能の神のものは神にお返しする。

 自由人として行動しなさい。しかし、その自由を、悪を行う口実とせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、きょうだいを愛し、神を畏れ、王を敬いなさい。

 何があっても「神の僕」として、ある。

 これを可能とする力を主が上から与えてくださいます。

 使徒たちの姿を見ると彼らがあらゆる権威に屈することはありませんでした。しかし、その権威を敬いながら主の僕として行動しました。主を前にして行動し、善を行い、心ある人々は使徒の姿を見て悔い改めに導かれていきました。

 

 私たちに与えられた秩序。その一番はじめのものは家族でしょう。その家族は主がご準備くださったものです。しかし、人間の現実というのは汚れています。問題も多々あります。しかし、主が定めてくださいました。

 そのことをまず受け止めてください。その中で、信頼を信仰をささげて、私たちが善を行うことをもって、命の祝福をもたらすのです。

 命に向かう行動がどういうものか、死に向かう行動がどういうものか。

 その心の内側の魂胆が主によって見られているということを肝に銘じてください。

 偽善者よと言われるのか、僕よと言われるのか。どちらかです。

 

 主権者なる主がいついかなるところにもどこにもおられると信じ、僕として行動するのか。

 それとも、主権者なる主を信じることを怠って、自分の好き放題に他者に対してふるまうか。

 

 主人は言った。『よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。』(マタイによる福音書25:21、新約49)

 

 本当に小さな小さなその一コマが大事なのです。わずかなものに忠実であるかが問われているのです。一番自分が甘えているような場所。自分の力が通じると信じているような庭。ファリサイ派とヘロデ派の人たちにとっては当時の宗教社会がそうだった。そこで、主の僕として、主の到来の前に、メシアの到来の前に屈服しているのか。

 

 私にとっては一番甘えているような共同体は、家族ですよ。何よりも一番甘え切っている母に対する態度が、まさにメシアに向かうようなものになっているのか。私は主の僕ですということが示されるような態度であるのか、問われていると思います。

 母が私の態度を通してメシアを見ることができるように。

 この教会の皆様が私を通して私がひざまずいているメシアが見ることができるように。

 この教会の人々がメシアにひざまづいていることを通して、この地域の人々がメシアを見ることができるように。

 

 安心して、この十字架の贖罪の前に皆が来ればすべての問題が氷解すると信じてよいのです。全能の主の力ですから。その力に結び付けられればよい。帰ってくればよい。そこから回復がはじまります。アーメン。