2022年7月3日 主日礼拝説教 マタイによる福音書22:1~14 「選ばれる人」 石井和典

 聖書は私たちの世界観を、根底から覆すような記述で満ちています。

 本日の箇所にまず出てくるのは「天の国」です。天の国のたとえというのが本日の箇所で語られている内容なのですが。ルカとマルコにおいては「神の国」という言い方もよくされます。しかし、同じことを言っています。

 決定的に重要なポイントは「国」という言葉です。バシレイアという言葉なのですが。これはギリシャ語で「王国」を意味する言葉です。王国なのです。主がおられる。王がおられる。その王国が神の国です。

 

 だから、教会に来て、聖書を受け入れ、生き方が変化していくというのはどういうことを意味するのかというと、一言で言ってしまえば「王を受け入れる」ということです。

 王のおっしゃることを聞くのか聞かないのかということです。

 その自由は一人一人に与えられています。

 だから、従うことも拒否することもできます。王は唯一なる神であるということ。唯一なる主に従うということに立つということが重要なのだと知らないと、いつまでも、神の国に生きることができません。

 

 何十年も信仰を生活をしていて、このポイントがずれているということが起こります。

 それがイエス様と律法学者、ファリサイ派との対話というところに出てくるのです。

 

 イエス様は聞く耳のあるものは強烈に気づき、「わたしのことを言っておられたのか」と言って悔い改める人が起こるお話をお語りになられます。

 

 ある王国があって、その王国の王が、自分の息子の結婚の宴に人々を招きます。そこに行かないということは何があっても起こりえないことですね。実際に考えれば考えるほどに、ありえません。

 最優先で行きます。ほぼ絶対ですね。

 しかし、行かないということが起こるというのです。

 一国の元首ですよ。その人が言うことを少なくとも聞いて反応するというのは、どこのだれでも簡単にというか当たり前のように行うことなのです。

 

 しかし、考えられないことにイスラエルの民は、その国家元首が言うこと、すなわち神がおっしゃられることを聞くどころかことごとく無視してきた。

 そんな歴史が記されているのが、旧約聖書でもあるのです。神を前にしたときの堕落具合というのは、考えられないぐらいに深いものがあります。全能の父なる神を無視するのです。神が遣わした預言者を無視するのです。神の独り子であるイエス様をも無視するのです。

 一番無視しちゃいけない人を簡単に無視する。

 これがそこかしこで起こってしまっているという現状を認識できるかどうかです。

 

 この日本でも起こっていることもそうです。

 聖書から聞かなければいけない。教会に集っている人々はそのような認識がある人たちです。

 神を信じるのであれば、世界全体に啓示されている神の言葉である聖書に耳を傾ける必要があります。

 しかし、それでも無視する。

 そういう現状が展開されてしまうという、驚くべき堕落の中にあるのが現状です。

 

 王が招いたあと人々はどういう反応をしたでしょうか。

 

 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、(マタイによる福音書22:5、新約42)

 

 この言葉!もう私の罪の現実のすべてを言い当てている言葉です。

 

 神の言葉(聖書)を無視し、自分の仕事、やるべきこと、商売に出かけて行って、そのことで頭の中はいっぱいになっちゃうのです。

 私の人生を一刀両断。

 ここにいる皆様の人生を一刀両断。

 しかし、光があてられます。本当は何を大事にしているのかが明らかにさせられます。

 無視しているだけならまだましです。

 無視することがエスカレートします。最後には王の家来たちを殺してしまうのです。私たちの状況って不思議ですね。同じところにとどまっているということはありません。

 良いものはもっと良くなり、悪いものはもっと悪くなる。そういう傾きと運動のある世界であります。常にそうなりますね。

 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて侮辱を加えた上、殺してしまった。(マタイによる福音書22:6、新約42)

 

 イエス様が目の前に来られるときに、さらに恐ろしいことが起こる。

 出来事が起こるときに、さらに恐ろしいことを人間はしてしまう。こんなこと絶対にしないだろうということを平気で行って人を殺めてしまいます。

 

 イエス様のお話になるお話は、恐ろしいですよね。でも、これは現実に今起こっていること、起こってきたこと、これからも起こるであろうことをそのまま、あえて象徴的な表現を使って語っているのです。ここに書かれている愚かしいことが現実に起こるから、今この世界の悲惨な現状に発展してしまっているわけです。

 

 王なる主の御前に自分が黙るということを選び取るのではない時、ある一人の人が大きな声を発して、王を迎え入れず、無視したとき、特に力を持っているものであればあるほどに、恐ろしい悲劇を生み出し、人を殺めてしまうということが起こります。

 22章の5節、6節というたった二節が、今、現代の現状を説明する言葉であることを悟ることができます。

 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて侮辱を加えた上、殺してしまった。

 

 私たちだけではなく、かの地の戦争をも言い当ているように思います。

 

 そして、だれかれ構わず王が今、宴に足を運ぶものを、節操なくというか、際限なく呼び集めておられるのを感じます。イスラエルだけではなくて、異邦人である我々に、主が手を伸ばしてくださって、私たちに、神の霊を注ぎ、私たちが聖書の言葉から悟ることができるように。

 私たちの心がこの神の言葉に反応するように主の見えない霊のお働きによって、神の出来事が起こるようにさせられている。

 これが現状の今ここで、日本の教会で、皆様のところで起こっていることです。

 大変な出来事が起こって凄惨な事件が起こっている時にこそ、主が際限なく呼びかけているその人が現れるであろうことを推測することができます。

 

 それで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、祝宴は客でいっぱいになった。(マタイによる福音書22:10、新約42)

 

 祝宴が客でいっぱいになるまで、神様は人々をお集めになるでしょう。そこに招かれた客にとってさらにまた重要なのが、しっかりと自分の心と体で、王である神に「応答」していくということです。それが「礼服を着る」ということです。

 

 王が入って来て客を見回すと、そこに礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は召し使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめき、歯ぎしりするであろう。』(マタイによる福音書22:11~13、新約42)

 

 招かれても、その招きにふさわしい応答すなわちここでは、神の御前における正しい行動というふうに言い換えることができますが。

 主に応答しないと、追い出されてしまうということが起こります。

 追い出されるというようなこのような裁きというのはどういう風に起こるのかというと。

 

 神の言葉である聖書がこころで響かなくなってしまうということをもって起こるのです。私もふさわしい行動をもって応答していなかったときは、聖書が何も心に響かず、力もないように思えてなりませんでした。

 

 しかし、主の御前に行き、応答すると、人は変わります。当然のように変わります。当たり前です。礼服を着るようになります。その時の態度とか、まなざしの変化とか、それは基本的には謙遜な姿をもってあらわされます。聖書全巻を通して見てみると、主に出会った人々は、皆、地に額をつけるような謙遜さを身につけます。

 頭を下げることを学ぶわけです。もちろん、そのように生きれば顔つきも変わります。謙遜さと共に、喜びと、力強さがその人の内に宿ります。

 

 我々は本当にいつも悔い改め、自分を客観視する必要があります。暴力性が我がうちにないか。主に向かう謙遜さがその心にあるか。

 怒りに燃えている時。暴力性が勝ってしまっています。暴力性はここに記されているように、エスカレートしていくのです。

 

 本日の聖書のたとえに示されているとおり、王のお招きにどのように応えるのか。どう行動するのか。暴力性をとるのか。跪く平安を得るのか。そのことは全くの自由なようですね。

 

 肉の現実というのは、恐ろしく堕落しています。集中すべきことに集中しないで、別のことに心を奪われてしまう。私はつねに黙想をして、主に自分の意識が向くようにと静かな時間を過ごしています。すると気づきますが、常に、常に、常に、一瞬で意識が別のところにいってしまう自分がいます。

 

 我々はイエス様の例えを聞いて、自分がここに描かれているように、常にどこかずれていて、暴力性を選び取ってしまってエスカレートしていってしまう。そういう中にあるということに気づくことが必要なのです。世はメシア・キリストを十字架につけて殺してしまう世です。倒錯しているのです。本当に重要なことに集中することをせずに、別の何かに集中して、それで問題が解決できるかと思い込んでいる。

 

 主は宴のイメージを用いて、私たちが祝宴に導かれているのだという最も根本的な真理に気づかせようとされています。

 聖餐式に招かれているということがいかに偉大なことであるのか。

 キリストは皆様にご自分の命を差し出しておられ、この食卓で出会ってくださるのです。

 奇跡がこの聖餐で起こる。

 本来はあずかることができないはずの罪人であったのに、無制限に主が大きく手を広げてくださって招いてくださっています。その主の思いにどのように応えるのか。

 

 主に対する態度をもう一度見直して、主の御前における謙遜さを身に着けるのか。

 

 私は一時期、信徒に対する怒りに燃えて切れまくっていた時があります。もちろん、それは表にはだしませんよ。しかし、心の中は煮えくりかえっていた。

 本当に愚か者です。何に集中するべきかわかっていなかったのです。礼服を着ていなかったのです。

 しかし、今はもう怒りに走るなどということはありえないことであると思っています。

 なぜなら、ここに「礼服を着るという平安」があるからです。

 ただ、主に応答するのです。主に対する態度を何よりも優先して、どんなときにも誰にたいしても、変わらずに主に対するように、接する。何度道から外れても同じように帰ってくる。

 罪を抱えたからだを持っているうちは、終わりの時まで、道を何度も外し続けるのです。主がこのような例えをこの世がある限りここに存在するようにしてくださったのは、私たちが毎時、毎分、毎秒。神を無視し、自分の都合を優先し、心の中で預言者を殺し、キリストを無視して、自分のあゆみを歩みだしてしまうからです。

 礼服を着て、すべて私たちの歩みに平安が訪れる、この瞬間を。王の祝宴を、王キリストの前に跪く幸いを得たいと思います。このたとえを聞くことができる時点で、十字架の赦しが皆様のところにあります。新しい歩みを始めたいと思います。アーメン。