2022年6月5日 ペンテコステ礼拝 使徒言行録 2:1~11 「聖霊が降ると起こること」

 聖霊が降ると起こること。

 それは、「バベルの塔と逆のこと」です。

 

 「バベルの塔の出来事」って何?ということですが。それは創世記11章に記されている内容です。

 人間が自分たちの力を誇り、人間の力で天に到達しようとしました。科学技術の粋をつくして、神に到達し、神を凌駕さえしようとしたということです。そこに神の怒りがくだり、裁きが起こりました。

 裁きは、「言語が散らされて人々が一致することができなくなった」という内容でした。

 人々が罪を犯すので、一致できないように神ご自身がなされたということです。

 

 聖霊が降臨するとどうなるでしょうか。一致できるのです。

 間違った方向にいっていた(罪を犯していた)状態が赦されて、回復されて、神の心が内側に満ちてきて、神の統治がはじまります。

 その時には、言葉が違っていようが関係ありません。文化伝統が違っていようが関係ありません。一致できます。

 

 キリストがここにおられるという臨場感を皆が持ち始めます。神がここにおられるという臨在感の中で、神を畏れるようになるからです。キリストの心がここにありに集中するからです。

 

 キリストの心(聖霊)ひとつで皆が不思議と一つになっていくのです。

 

 

 もう、皆さんおわかりですね。一体どんな状態か、悟ることができるんじゃないでしょうか。

 

 バベルの塔的な出来事(不一致)が起こっているのか。バベルの塔の逆的な(一致)出来事が起こっているのか。

 

 言語が一致しているのに一致できなくさせられているのか。違いが恐ろしくたくさんあるのに、一致できるのか。

 

 聖霊が「とどまった」という聖書の表現からも私たちは深い洞察を得ることがきます。「とどまった」というのは、「座った」という意味です。それは王がその御座につかれるという意味です。

 民の中に、主イエス・キリストの霊が王としてお座りくださったということですね。

 聖霊なる神の統治がそこにあるということです。

 

 羊には羊飼いがいなければなりません。全人類には皆、飼い主がいないといけません。そうでなければ、それぞれが好き勝手に好き放題のことを行って、命に至るのではなくて、破滅に至ってしまいます。

 だから、主(あるじ)が必要なのです。

 

 これまでは、自分自身が王として座っているような状態でした。

 神様がその王座におられるはずなのに、その神様を心の内から追い出して、自分自身が座ってしまっている状態が罪の状態。

 的外れな状態ということです。

 

 主イエスがお座りくださって、その主がおっしゃられることにひたすらに耳を傾けて、主にお従いしようとしているのか。聖霊の統治がない状態というのは、自分自身が王座に座っている状態ということなのです。

 

 私は非常に人間として器が小さく、小さなことでぶちっとキレてしまいます。そういう時は、全然聖霊の統治がそこにないなと思います。

 主がそこにおられる、主が私の心に座っていてくださる。そのお方がどのように力をもって語ってくださるのか。それが意識できているのならば、誰かに対してぶちっと簡単にキレるはずもありません。そういうことは冷静に、こうやって静かに主に向き合っているときには気づくのです。

 

 しかし、的外れな状態にある時は、自分の感情や考えだけが前面に出てきます。

 

 このような愚かな状態が続けられていくと、そこには聖霊の支配ではなく、自分の支配があることがわかります。

 自分の支配なんて力ありませんよ。それによっては何も物事が起こらないということはわかっているのです。

 むしろ、バベルの塔的な出来事、散らされて、命の爆発は起こらずという状態になってしまいます。

 

 ペンテコステというのは非常に象徴的に、私たちがどのような状態を今実際に歩んでいるのかをはっきりと私たちに示す内容だと思います。

 ペンテコステの日にそこに集まっていた人々というのは、特に12弟子を思いだしてください。

 彼らの思想信条を一つにして、一致してくことができるというような人たちではありません。政治的に言ったら、右と左の人が一つになっているような状態でありました。しかし、彼らには不思議と一致が与えられました。

 主は、あえてそのような人々を選ばれたのです。

 

 どうにも、自分たちでは一致できない人々です。

 

 屈服して聖霊の支配を求めなければ何もできない人々。そのゼロというよりも、マイナス状態から、不思議と一致して主の業のために心の内側に炎がとともって、ダイナマイトのような爆発力が備えられて、共同体を次から次へと生み出す人たちに変えられていった。

 ペンテコステが起これば、命がボコボコと湧き出してくるのです。

 

 

 主は私たちがのぞまないかぎり、そこにとどまらないお方なのだということが私は自分の人生の中でよくわかってきました。聖霊降臨の出来事を見ていてもわかります。彼らが一つになって、ひたすらに主を求め続けていたからこそ、主はそこにお働きくださったのです。

 

 主がどれだけ私たちの自由意思を尊重されていることか。

 ですから、初めの使徒たちと同じように、シンプルですが、自分で自分の心に主の心が注がれるようにと求めてください。そこからはじまります。

 

 

 聖霊がとどまる、主がとどまるということがペンテコステに起こったことですが。

 主がとどまるという言葉が創世記6:3に記されているのですが。その箇所も見ておきたいと思います。創世記をみると、堕落していくということはどういうことなのかがこの箇所から見えてきます。堕落するというのは、主の霊がとどまらないということです。

 

 さらに言うと、目に見えるところによって(肉によって)影響を受けて、神に向かうスタンスが崩されてしまうことなのだということがわかってきます。

 

 さて、地上に人が増え始めたとき、彼らに娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。主は言われた。「私の霊が人の内に永遠にとどまることはない。人もまた肉にすぎない。その生涯は百二十年であろう。」(創世記6:1~3、旧約7)

 

 神の子っていうのは天使たちと言われています。サタンと呼ばれている悪霊は、天使が堕落したものです。天使も堕落の道が開かれているんですね。そこまで主は一人一人の自由意思を尊重しておられるのですね。

 愛そのものであるお方だからです。愛は、そこに常に自由がありますよね。だから、もう天使も堕落する場合がある。人間も堕落する。

 その時に何が問題で堕落するのかというと、神の言葉から聞こえてくる神の心をとるのではなくて、自分たちの目に見えるところで判断してしまうことによって堕落するのです。

 すなわち、創世記6章であれば、天使が人間の女性が美しいと思ったので、性的な関係をもって子どもをつくったというような内容です。神様が決められた境界線があります。

 神の心があります。天使と人間とは、分けられていた。しかし、それを越えていってしまうのです。神の秩序を壊していく。自分のやりたいことを優先させて、神様を全く無視するようになるのです。

 主が決められた境目というものがあります、そこから先は神の領域だよという内容ですね。

 神がどうお考えかじゃないのです「こうしたい」という目に見えるところにもとづき、そのように行ってしまうのです。

 

 すると、主の統治を失います。「聖霊の支配を失って力を失う」ということになるのです。 

 

 聖霊の支配を失うと力を失います。エンジンを失います。エンジンを失ったら、これから先なにもできません。しかし、エンジンを失っていることにさえ気づかないということが信じるものたちの中で、悲しいことに起こっているのが現状でしょう。だから、命の爆発が起こって、命の萌芽がそこら中で見えるということが起こっていないという惨状に至るのです。

 

 一人一人が回心していくためには、出来事が起こる必要があります。

 

 ペンテコステにおいて起こった出来事というのは、ユダヤの民にとって「私は忘れられていなんだな」「神様は私のことをじっとみていてくださるのだな」「わたし一人に注目してくださるお方なんだな」「わたしだけではなくて、全世界の人々ひとりひとりを見ていてくださるお方なんだな」ということを確信させたのです。

 

 炎のような舌がわかれわかれに人々にとどまって、人々が異国の言葉で話し出すようになったとあります。この時に語りだした言葉というのは、ディアスポラユダヤの民にとって強烈な経験となりました。自分たちは、国が滅んだ時に、散らされ、外国で生活するようになった。そこに文化に適応しつつも礼拝して生きてきた。

 その外国に住んでいるユダヤ人にとっては、中心のエルサレムに戻ってきたときに、その中心にいる人たちからは、どこか差別されるようなというか、異文化に適応して、そして異文化の中で信仰が薄められてしまったかのように思われていた。

 だから、非常に寂しい思いをしていたのです。しかし、神様は、その異文化の中で生活してきた民に、その異文化の言葉をもって、語りだしてくださったのです。

 使徒言行録2章9~11節に記されている土地の名前というのは、あとで聖書の地図を見ながら確認していただくとわかりますが、当時の人たちが考えている全世界の地図をぐるっと包み込むような地名がでてきます。

 そこから見えてくるメッセージは、主は誰一人忘れておられない。誰一人、忘れられる人はいない。人は忘れても主は忘れないということです。

 

 イザヤ書49:14、15、16(旧約1129)の預言の言葉が彼らの心にしみわたる出来事でありました。

 しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てられた。わが主は私を忘れられた」と。女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても私はあなたを忘れない。見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた。あなたの城壁は常に私の前にある。

 

 私にわかる言葉で、私に対して、私一人に向かって主は語りかけてくださるのです。それだけ、皆様一人一人を大事になさっているのが、主なる神。

 

 「めいめいが生まれ故郷の言葉で、神の偉大な業が語られる」のを聞くのです。

 

 主よ、私に語ってくださったのですね。鈍いこの私に、この悟ることのない愚かな私に、私のことを諦めずに求め続けてくださって、すぐ近くに主はずっとおられたのに、悟ることがないこの私にわかる言葉で、私の言葉で。私にわかるようにしるしをお見せくださって、私が変わるように、私が祝福で満たされるように、私が力で満たされるように。私が命で満たされて、私のまわりにつぎつぎと新しい命が生まれ出すように。

 

 死から命へ。復活から復活へと。私たちが歩みを進めることができるように、出来事を起こしてくださるのです。

 

 私たちは心を一つにして、ひたすら祈りたいと思います。昔も、今も、これからも、心を一つにして祈るところに、主イエスがご一緒してくださいます。アーメン。