史上最も誤った裁判というのは、イエス様を十字架に至らしめるという裁判です。
裁いてはいけない人を裁いてしまった。
しかし、逆に史上最も輝いている現場というのが、イエス様が十字架におかかりになられるところです。
不思議なことに、最悪の闇と最高の光とがあふれ出す場所が、十字架という場所です。
カルバリの丘、ゴルゴダの丘、されこうべと呼ばれる、処刑の現場。
そこから今も光が輝きだしていることを私たち教会は受け止めています。
不思議ですね。最悪の場所が最高の場所となる。これが福音を聞くところです。光が輝きだしてくるところ。メシアがおられるところで起こることです。
ゲツセマネの園、カイアファの官邸というのは、人類にとって最低最悪の失敗の現場であります。
イエス様が血の汗を流しながら祈っているのに、その祈りに寄り添うことができず、主の祈りを無視して行く姿。これが隠すことができない弟子の真実なる姿です。
使徒たちは、裏切り、蜘蛛の子を散らしたようにどこかへ散ってしまう。保身のため、金のため、自分の正義が勝ってしまったがゆえ。
主イエスの御業が見えなくなってしまった。
本日の聖書の舞台であるカイアファの官邸というのは、ペトロが三度知らないと言ってしまった場所です。ペトロはこの場所まで主イエスを追いかけては来ていたようです。官邸の中では主イエスがとらえられて不法な裁判が行われていた。
そこに入れない者たちが、外で待っていた。火がたかれ暖を取っていた。
闇の中で光が注がれ、そこでペトロの真実なる姿が暴露されてしまいます。
イエス様の光が光り輝くときに起こることは。「私たちの闇の姿が暴露されてしまう」ということです。
しかし、私たちの闇の姿が暴露されると私たちが受け止めるのは驚くべきことに「癒し」なのです。「慰め」なのです。
ペトロにとっては最低最悪の裏切りが暴露された場所。
しかし、そこで彼の本当の姿が露わにされています。だからこそ彼は救われたということなのですね。真実が明らかにされないといつまでも闇の支配から抜け出すことはできません。
もはや私たちが主の前に自分を偽る必要のないことを悟らさせられる現場でもあります。
偽っていることさえも、主にはすべてお見通しです。
罪を犯した結果、アダムとエバは、自分の腰を隠し、恥ずかしい部分を隠してなんとかしようとするようになりました。そのアダムとエバに対して、主なる神はすべて見えておられるにもかかわらず、「どこにいるのか?」と問われた。それはどこにいるのかわからないから教えてくれという意味ではなりません。神に対して立ってはいけないところに立っているので、どこに立っているのかと聞かれたのです。
罪の結果、責任を他者に転嫁し、その責任転嫁によって起こることは、さらなる罪の積み重ねでありました。
しかし、どうでしょう。泣きながら自分たちが犯してしまった罪と向き合い、それを記述しながら永遠に残るように祈る弟子の姿を。彼らは明らかに真実と向き合っていますよね。自分の本当の姿がとむきあっています。そして、もはやアダムとエバのように恥ずかしいところを隠すなどということは考えず、に主イエスがいかに光であり自分が闇であったかを記述してます。
そこにはまことの癒しがあります。
何千年もの間、私たちはこの使徒たちの真実なる姿に癒されてきました。
かつての弟子たちのように、「自らが守られることを考え、他者に責任転化してしまう自分がいた」のが偽らざる自分の姿ではないでしょうか。
イエス様の熱い思いがあると知っていながら、その熱い思いを無視し、眠りこけてしまう自分がいる。主イエスのご愛がそこかしこにあるのに、そのご愛が注がれている様を見るのではなく、自我の中に去来する何か別のもの、感情や私たちの先入観を通して人を見ていたりする。
見るべきものを見ていない自分たちがいる。
そのことに気づく。気づいたのが弟子です。
逆に言えば、それに気づかないでいるものたちにはいつまでたっても主イエスの心への理解が与えられないというか、主の御前にずっとストップしたままになります。
それでもなお主は私のことを見捨てることなく、導き成長を願ってくださり導きを加えてくださるのだと知る。
最悪の裏切りの現場を最悪の裏切りの現場とだけはせず、主イエスが私の心に触れてくださったのだということを確信するところとされる。
主のご愛の深さに恐れひれ伏す場所としてくださる。
早天礼拝でご一緒に旧約聖書の律法を読んでくださった方々は、良くお分かりだと思います。痛いほどに私たちの現実の姿を直視させる内容です。
罪の問題に気づかせるのが、律法、すなわち創世記であったということ。
あの記述を読んでいくと、主の命に生きるとはどういうことなのか、さもしい自分の世界の中に自分で祝福を独り占めしようとするものに起こる呪いはどういうものなのかわかります。
いかに自分が狭い自分の世界に自分自身を閉じ込め、貪欲のなかからものを考え、貧しい思いで他者を見ているか。全能の主の力を見るのではなくて、貧しい思いで人をみるから呪い、争いを生み出しているのだということに否応なしに気づかせる内容となっています。
では、罪に溺れている自分を、溺れていることにさえ気づかない人々がどうやって救い出されるのか。さらに、罪に溺れている人が私のそでをつかんで引きずり込もうとする。そのことに抗うことさえできない。同じ罪の思いによって呪いの思いをもって返答してしまう自分がいることを認めないわけにはいかない。
罪が入ってくると、その罪によって私たちの心がまた反応して、その罪に罪の応答をもって罪罪の連鎖が起こる。
律法というのは、宗教改革者のカルヴァンが指摘していますが、三つの機能があります。罪を自覚させる機能と、社会的な規範を作り出す機能、さらに信じるものたちに成長をもたらす機能。最後の成長をもたらすものというのを律法の第三用法と言ったりします。
この第三用法というものが極めて重要です。聖書の言葉を聞いて単に罪の自覚のにみとどまるのではなくて、成長に至る。
ここまで至ることこそが私たちにとって重要であります。
成長というところまで至らない限り、罪の連鎖から抜け出すということは決してできないからです。罪罪の連鎖を人に他者にぶちまけることになります。
この律法の第三用法、罪を自覚させた結果、その後に、民が成長するに至るというポイント。
ここに至るためには、使徒たちに起こった出来事。それはペンテコステです。
心を一つにして、ひざまづいて主に祈っていると、そこに聖霊が下ったという出来事です。聖霊がくだったら何が起こるでしょうか。
その時に起こることは、あらゆるしがらみを乗り越えて、文化伝統、考え方の違い、育ちの違い、そういったことを飛び越え、主イエスが私たちの中にご臨在くださるのだということに気づいていくということが起こったということであります。
自分たちが持っているなにかに引っかかって一致が阻害されて、ばらばらになるというのは、旧約のバベルの塔の出来事(創世記11章)において主がお見せくださったことです。
バベルの塔の出来事においては、人間が自分たちの力によって一致を生み出そうとした結果、逆に一致が疎外されて、裁きを受けた。その結果主のご臨在が去ったわけです。
主が去られた結果起こることは、お互いに対する不理解であり、民が散らされて、力を奪い取られてしまうということが起こる。
一致が疎外されて、ばらばらにさせられてという局面というのは究極的に重要な局面であることがわかります。
弟子たちがどのようにこれから歩んでいくかの分かれ道です。
自分たちがいかに主イエスを裏切ったのかと誠実に向き合って、その一つ一つの中に、向こう側から光り輝いてくる主イエスの御業をみるのかみないのかです。
主イエスはインマヌエルなるお方。
このお方はいついかなるときにも、救うべき民のところにご一緒してくださっているお方です。
だから、私たちはこのお方がおられないなどと言える瞬間というのものはない。
しかし、弟子と同じように全く意識してこなかった場所が一杯あるのです。裏切りの現場、無視の現場、スルーの現場が、カイアファの官邸のように、ゲツセマネの園のように起こっている。
しかも、そこに主イエスがおられたのだということにさえ気づいていない。その結果、敵をつくりだし、その敵を責めたてることに目がいっているか、もしくは、自分たちの罪の現実にただただうちのめされているか。
しかし、私たちが見るべき道というのは、そのような敵に集中する、もしくは自分の内面だけに集中する道ではありません。
「主イエスがおられることを認める道」です。
「光を見る道」です。
「主イエスが祈っておられること」、「主イエスが我々の只中で光を放っておられること」を認める道です。
我々の闇の向こう側から主イエスが圧倒的な光によって包み込んでくださっている。
イエス様を殺そうとするカイアファの官邸に集まった人の、その向こう側から光が輝き出している。見ようと、信じようとするものがみれば、この時もご自分が「神の独り子」であることを証してくださっているではないですか。
主イエスは、いついかなる場所をも、主イエスへの信仰が満ちる場所、見ようとすれば主がお語りくださっていることがわかる場所。主イエスがここにおられる場所へと変えてくださるそのようなお方であることがわかります。
もう、私たちは安心です。このお方の御手が見るようになっていませんか?
もしかしたら、あの瞬間にも私のところにおられたのではないか。
あの涙の瞬間にも、あの最悪な出来事の背後にも。
ゲツセマネの園にも、カイアファの官邸にも、私の人生の涙の谷にも。。。
まだ、誰かを悪者にして、その人を責め続けている状態は楽でした。
自分の義がありますから、そこに酔いしれていればよいので。
もちろん、そんなことも主の御前では愚かなことです。
しかし、最悪につらいのは、自分が徹底的に加害者であるということに気づいた瞬間です。
私は、自分が被害者面することがいつも多いですが(汗。繊細で傷つきやすく、ずぼらという。最弱。
しかし、幼いころからの自分の行状を冷静に見ると、徹底的に加害者側に立ってます(汗。
すぐ人を裁き、自分の正義で人を傷つける。
結婚して妻の平和主義的なあり方に接すると、自分の凶暴さに否応なしに気づきます。
さらに、黙想を続けて、主イエスに私の人生の軌跡を徹底オープンさせられると、自分で自分を見ていられない感じです。。。
しかし、その向こう側に見守っていてくださった主イエスの光が見えます。
恥ずかしい愚かな正義感を振りかざす最低最悪の自己の義の奴隷が、人を裁いているときに、主がそれでも見捨てずに、私を見守っていてくださった。
成長だけを信じて。天に向かう人間なんだと信じてくださって。。。
キリストは特に宗教指導者たちに対して厳しく接せられました。彼らが自分たちの腐敗具合に気づくようにです。でなければ、一番正しいことを伝えなければいけない人たちが立ち帰らないと、その周りに本当に重要な正しい情報が伝わっていかないからです。
聖書は日々深く読めば読むほどに、コテンパンに自分たちの腐敗具合に気づかされます。
イエス様は本当に必要な情報、そのまま信じなければいけない核の核の情報をこの敵対する大祭司たちにはっきりとおっしゃられています。
イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。だが、私は言っておく。あなたがたは間もなく人の子が力ある方の右に座り天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイによる福音書26:64、新約54)
イエス様が、神様の右に座しておられ、やがて終わりの時、再臨の日に雲に乗って来られると。これは全世界の教会が受け入れている真理の中の真理です。この情報こそを本当はこの大祭司達は聞くことができたはずなのです。
しかし、彼らは聞きません。
彼らにとってはイエス様は自分たちのことを批判してくる敵でしかなく、何をイエス様がおっしゃろうと、はじめから問題ではなくて、イエス様の言葉尻を捉えて、死刑にする方便を見つけようとしているだけだからです。
あらゆるしがらみから解き放たれて、ただイエス様と向き合えばよいという現代に生まれた私たちは幸いだと思います。右の人がなんというか、左の人がなんというかではないですよね。ただ、聖書に聞いてイエス様に聞いて、そのまま生きる。そのように願ったからこそ、この異教社会でこの場所に来ることが許されたわけですよね。
そして、この場で聞くのは、ひたすらにただ主イエスが真実に何をおっしゃられているのかですよね。
真実に主の御声に聞いたものたちには、恐ろしいほどの力とエネルギーが与えられる。自分自身の人生の大きな変革が起きるでしょう。そこから、周りの人たちの変革が起こるでしょう。そして、それはやがて社会全体を改革するほどまでの力となることでしょう。それが、主が弟子たちに与えた力でした。だから、日本に聖書が届いているのです。
カイアファの官邸にあつまった大祭司のように自分たちの持っていきたい方向に話をもっていきたいために、曇った目で物ごとを見るのではない。ただ主の心を見る。
そうすると、本当に知らなければならないことが見えてきます。見えてくれば、光にすでに包まれていることにお気づきになるでしょう。アーメン。