2023年7月2日 主日礼拝説教 使徒言行録7:54~8:1 「罪の赦しの福音」 石井和典  

 教会の皆が心から尊敬する、新約聖書の大部分の手紙を記した使徒パウロ

 しかし、彼はかつて重大な罪を犯していました。

 それは殺人教唆です。殺人に賛同し、推進した。

 ステファノの殺人に関してです。

 

 殺人教唆って許されるんですか。裁かれるべきではないですか。

 しかし、パウロに対する、国による裁きというのは下されていませんでした。

 

 その人が宣教の業に従事して良いのでしょうか。

 

 パウロは、しかし、神によって懲らしめを十分に受け取って、悔い改めに導かれていきます。

 

 彼には自分がステファノの殺害にかかわることをもって、キリストを殺してしまったのだという自覚が与えられました。

 彼にとっては、厳しい裁きの言葉を受け取ったということになるでしょう。信仰者として、命を失ったというか、すべてが終わったとも言えるような最低最悪な内容を受け取らなければなりませんでした。何しろキリストを殺した、神を殺したという自覚なのですから。

 

 彼が回心するときに天から聞いた言葉というのは、次のような言葉でした。

 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞いた。使徒言行録9:4、新約225)

 

 ステファノを殺すことはキリストを殺すということだったのです。

 

 それを深く心の奥底で受け止めていたのがパウロでした。だからこそ、罪人の中の罪人という自覚が出てくる。

 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。(テモテへの手紙Ⅰ1:15、新約375)

 自分こそが救われなければならない、憐れまれなければならないものであるという自覚。

 誰にもまして私こそがこの共同体の中で罪人である。

 この自覚が深くある共同体は互いに争うことができません。

 自分の正しさなどもう主張できないからです。だから、キリストのもとで、徹底的に打ち砕かれて、キリストが語ることを自分の口を通して語るということになるのです。

 

 だから、本当に大事なことというのは、教会にとっても、人類すべてにとってもいつも、世界のはじめからずっと変わらず「自分自身が神と向き合うかどうか」ということなのです。

  

 昨日の早天礼拝の説教箇所も同じように使徒言行録でありまして、ステファノの選任というところだったのですが。そもそもなぜ彼らがステファノを選び出したのかというと、使徒たちが、自分自身が神の前に御言葉に徹底的に集中する歩みからそれてしまって、それゆえに共同体に問題が炎上しはじめたのだという自覚があったからです。

 しかし、その問題への自覚の中で、彼らが自らの態度を改めることに主軸を置いて対策を重ねた結果、共同体には人が沢山加えられていったということが記されています。

 

 その時に問題だったのは、ヘブライ語を話すユダヤ人がギリシャ語を話すディアスポラユダヤ人のやもめを軽んじているということが発端となっていました。

 だから、使徒たちはこういう言い方もできたと思います。

 「ヘブライ人が悪いんだから、ヘブライ人どうにかしろ」

 お前が悔い改めない限りこの共同体はどうにもならない、と。

 しかし、そういうような発想はしないのです。

 問題が出てきて炎上しはじめた、ならばなおさら、自分たちの神に仕える態度を見直そうではないか。ということでありました。

 

 聖書全巻を通して一貫して問われているのは、はじめから最期まで、「私たち自身の神に向かう態度」です。それは創世記のはじめの堕落の段階から全くかわりません。

 しかし、蛇にそそのかされた人は、その問題の核心に触れることなく、相手のせいにしてしまいます。

 全然、はじめから、問題ってかわらないんだなって思わされます。

 共同体の中でおこる問題、それは起こるべくして起こり、常に、人が集まるところ問題がつぎつぎとおこる。そのときに、信仰を与えられた人々が、自分と神との交わりの中で、神との関係を人に問うのではなくて、自分自身に問うということに向き合うと、考えられないぐらい大きな知恵があたえられる。

 

 エルサレム中がクリスチャンで満ち、ユダヤ教の中枢というか当時の社会での体制側の人でさえクリスチャンとなっていくということが起こっていきました。奇跡が起きるんですね。でも、普通に考えて当たり前だとも思います。使徒の時代から2000年後の私も、この使徒の考え方、決断の仕方、神との関係において自分があらためるというあり方。その姿は非常に魅力的というか、命をかけてもついていきたいと思いますね。

 

 教会ってそもそも、こういう信仰によって歩み、奇跡を経験するという、奇跡共同体なんだなって思わされます。

 

 人々の怒号が飛び交う中で、ライオン門の外につれだされ、石打にされてしまうステファノ。

 どう考えてもどう見ても凄惨な、恐ろしいおぞましい暴力の現場。

 しかし、このステファノを見ていたクリスチャンに見えたのは、天とステファノがつながっていく姿です。世の人々とは見え方が違うのです。

 

 私はこの聖書自体が、奇跡的な編集によって残されたものだと思います。

 人々(ユダヤの人々)は皆殺意に燃えていました。なぜならステファノが真っ向から、ユダヤ教の中枢に向かって罪を指摘したからです。「キリストを十字架につけて殺害し、メシアであり、神の独り子であられるキリストを殺害したのはあなたがただ。すなわち、あなた方は神殺しをしたのだ。それはあなたがたがもっとも忌み嫌っている偶像礼拝を、自分自身がしていたからなのだ」ステファノは言うべきことを言いました。その結果人々の怒りは燃え上り、その感情の炎を、煩悩を抑えることができなくなり、彼らはステファノを殺害しました。

 

 しかし、クリスチャンたちは、ステファノがしっかりと天とつながっていることを見ました。この迫害の状況を乗り越えていく場面として描いています。

 

 天が開いているとステファノが言っているその言葉を教会は受け止めたのです。

 「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。使徒言行録7:56、新約223)

 

 同じ世界に生きていても、同じものを見ていても、人間って見ているものが全く違います。生きている世界と次元が全く違います。

 

 教会ってすさまじくパワーに満ちているところだと思います。

 「天とのつながり」で考えるのですね。この最低最悪のステファノの殺害の現場でさえも、ステファノが天に凱旋して、永遠の命に生きはじめる、神がステファノを招き入れる現場として見ることができるわけです。

 

 しかも、すでにステファノの内側には聖霊によってキリストが宿っておられる。そのことがわかるのがステファノの言葉です。

 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言った。そして、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。こう言って、ステファノは眠りに就いた。使徒言行録7:59、新約223)

  

 イエス様の十字架上の言葉とほとんど同じですね。このステファノの言葉は。

 エスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。ルカによる福音書23:46、新約156)

 その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。ルカによる福音書23:34、新約156)

 

 信じるものたちは、「イエス様に似たものにさせられる」って聖書には記されています。

 

 神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。(ローマの信徒への手紙8:28~30、新約279)

 

 ステファノは、キリストに似たものとさせられ、キリストの復活の命を生き。それゆえに、肉体における死を迎えてもなおその「死」は眠りにすぎないのだと表現されていきます。

 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言った。そして、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。こう言って、ステファノは眠りに就いた。使徒言行録7:59~60、新約223)

 

 「万事が益となる」という言葉は、クリスチャンの合言葉です。それは、キリストに似たものとさせられるということ。それはまさに十字架と呼べるような場面に遭遇したとしても、そこで復活の命を生き。決して死ぬことはないということ。その命の祝福の中を生きるということです。死は眠りだという境地に到達すること。

 私たちが自分の見えるものから抜け出して、神の業に集中することができるようになったときに見える世界です。

 

 光が見えている人たちって、同じことが起こっていても、その見方が全く違います。

 クリスチャンたちが見ていた、この永遠の命に向かうステファノの姿。

 

 ユダヤの体制側の人が見ていた、冒涜者を抹殺するという、恐ろしい怒りと殺意に満ちた、恐ろしい煩悩に満ち溢れた、貧しい、さもしい、命を失っていく滅びの世界。

 

 不思議なことに、この殺害に賛同していたサウロという人が回心して、パウロというギリシャ語名を名乗り、全世界に対する伝道者として出ていくという姿が見えていきます。

 だから、ここで終わりではなくて、このステファノの殉教によっておどろくべき命の広がりというものが見え始めるのです。

 

 教会内外、世界中、どこでも、問題がおこります。時に凄惨な事件にまで発展します。

 人が人を心の中で抹殺するということがおこります。

 しかし、そんな場面であろうが、神の僕たちが目を開いていくとどうなるのかというと、命の祝福が、全世界につながっていく命の爆発が見えてくるのです。

 

 そういった光を見ることができるようになるということが、キリスト者として実質的に命を生きるということです。だから、確実に人に光を手渡すことができます。塩となって、味をつけることができます。腐っていく意識から人を救い出すことができます。

 万事が益となると本当に信じる信仰。キリストに十字架によって結びついて、罪の赦しを得て、自分が一番の罪人で憐れまれるべきものという自覚が生じると同時に、死を乗り越える信仰を得たものとなる。

 常に、キリストが見えるという信仰。ここにおられるという信仰。インマヌエル。

 

 キリストがあなたの十字架の場面にさえ同行してくださる福音を聞くのです。

 

 その福音に生きている人は、確実に人に光を見せることができる。

 

 ビジョンが変えられて人を見れば、その人の内側に神の光があることを発見できます。

 

 まずは、ご自分の内側に光があることをしっかり見つめなければ、人の中に光を見ることはできません。

 そうなると、「俺が正しくてあいつが間違っている」といういつものあのエデンの園からひきづって、炎上に炎上を重ねる地獄の業火に焼かれることになります。

 

 キリストの僕として、光と命と解放を見ましょう。アーメン。