2023年6月18日主日礼拝説教   使徒言行録7:37~53 「神は語り続けられる」 石井和典

 ステファノが処刑されてしまうことは必然でした。

 なぜなら、彼は、当時のユダヤ教の体制について真っ向から批判を浴びせかけたからでした。

 人々は神を神とするのではなく、神殿を神格化してしまっていること。それはまさに荒野でモーセの周りで人々が偶像礼拝をしたことと同じであると指摘しました。

 だから、いうなれば、聖書を一生懸命に勉強して守っていると思っているあなたがたこそが、聖書を自ら破っていると指摘したのです。

 だから、人々は怒り狂ってステファノをエルサレムのライオン門の近くに引き出していって石打にして殺害してしまったのです。

 

 いつでも変わらず、問題となるのが偶像礼拝です。

 全能の神を信じるのか、他に流れるのか。

 ということです、聖書で深く問われ続けていることは。

 

 人々は、自分たちの好き勝手な神様をつくりだします。

 神の側に主導権があって私たちがその主のお示しくださることに従わなければならない。

 それが全能の主なる神に従っていくということです。

 

 しかし、人間は自分の都合に合わせて、自分がこうあってほしいということを実現するためにいろんな分野別の神を生み出します。そして、自分の親である神からは離れます。

 

 神がこうあってほしいということをこちら側から向こう側に要求して、神のお姿をデフォルメしてしまうということが起こるのです。 

 

 2000年前のユダヤ教社会の人々の偶像礼拝は。

 「イエス様を無視して、神殿を絶対化する」ということでした。

 神殿はあくまで主が示してくださった、主を指し示すものであり、神様の本体ではない。

 

 イエス様は、神様本体です!神様そのものであられるお方です。

 

 神殿は人を救いませんが、神様が人をお救いくださいます。

 神様はユダを破壊したバビロンから解放させてくださいますが、神殿はバビロンによって破壊されてしまうのです。

 

 イスラエルの人々にとって、偶像礼拝って、「絶対に絶対に絶対に!」避けるべき内容だと皆が思っていたことです。

 

 旧約聖書のはじめの五つ。モーセ五書の中心にあるのは十戒です。その十戒の一番重要な一番最初の戒めこそ、「偶像礼拝をするな」ということです。

 それこそを民が守っていないということが現実だったのです。

 「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。出エジプト記20:2~4、旧約116)

 この言葉は、ユダヤの民にとって一番重要な言葉であると言っても良いでしょう。常に彼らは、出エジプトを祭りで祝いながら、過越しの祭りを行いながら、その祭りの中で神様の御業を思い起こし、このお方こそが私たちの民族の救い主であるのだと信じて、その通り信じ、その中で彼らは共同体を形作ってきたわけです。

 

 しかし、その一番大事にしなければならない本質的に重要なその第一のことを彼ら自身が破ってしまっているということ。それがイエス様のご存在によって証明されてしまうのです。神様を神様としているのではなくて、彼らに与えられた神殿を神格化したり、自分たちの組織を神格化したりしてしまっていて、神様を無視するということが起こってしまっていたのでした。

 それがイエス様を無視するという形で実現してしまっていたのでした。それを真っ向から指摘したのがステファノです。

 

 十戒の言葉は、本当に私にとっても、すべての民にとっても救いの言葉です。私などは神学校に入学して、そこで危機的な神学生としてのアイデンティティの崩壊の危機を経験しているときに、その時に、この言葉が頭の中をめぐることによって、主が秩序を生み出してくださっていたことを覚えます。その言葉の示しがなければ私は歩みを続けることはできなかったとおもいます。

 今この歩みを続けることができているのは、主が語りけて下さったからです。

 そういった決定的に重要な言葉というのが聖書の民には誰にでもあるはずです。

 

 しかし、その言葉自体を自分自身が破ってしまうという瞬間を経験するのが、私たちの信仰生活の現実。罪の現実であろうと思います。そんな自分でも受け入れることができない裏切りを神様の前に行ってしまうのです。

 

 神を信じる、神を信頼する、神に帰る。神こそが主。信仰の言葉。詩編の言葉。その言葉を重ねに重ね続ける。

 その民こそが、実は主イエスを十字架にかける。

 神を殺す。

 それゆえに、神の僕たちを迫害する。殺す。ステファノを殺す。預言者たちを殺す。

 

 これが人間の現実であるということを突きつけられたのが、十字架の出来事です。

 

 偶像礼拝はしないと言ってきた民が、偶像を礼拝し。

 神に従う従うと言ってきた民が、神を殺し、十字架にかける。

 

 御言葉を大事に大事にと言っているその民が、預言者を殺してしまうのです。

 それが十字架。

 今も昔も、世界史をみれば、十字架十字架と言いながら、小さな命を握りつぶしてきたというのが、人間の愚かな現実ですよね。

 

 ステファノは、そのような出来事が、聖書をやぶるできごとが。聖書を守っていると考えているあなたのところで、あなたの問題として起こっているのだということを指摘するのです。

 しかし、そこからこそ人々は救い出されるわけです。

 そのような悲劇的な最低最悪な中に一筋の希望が示されるのが十字架です。

 真っ暗闇の闇の中で。もう壊滅だというその中で。裁きの裁きのその現実の只中で、そこで一筋の光が示されていくのです。

 

 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。使徒言行録7:51、新約222)

 

 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち。

 この言葉を言われているうちが花です。

 これはどういう意味なのかというと、割礼というのは男性性器の包皮を切り捨てるという内容をさすわけですが、これは想像していただければわかると思うのですが、神の言葉に対して敏感に、感覚が鋭敏になるということを意味します。心と耳が神の言葉に対して良く反応できるように、霧が晴れるというか靄が晴れるというような意味です。心を柔らかくして、神の言葉が深くこころに入っていく、しかも鋭敏に神の言葉に反応することができるということが、心と耳に割礼を受けるという言葉の指す内容です。

 

 ステファノは、現実に起こっていること、主イエスを拒絶して十字架にかけたということが、神様の言葉に対して頑なになった結果であると言っているのです。

 この指摘を受けている内に悔い改めていく必要があります。

 このような厳しい言葉を受けるのは誰でも嫌でありましょう。

 

 自分は神をあがめていると思っていたい。信仰生活をしていると思っていたい。自分こそ信仰深いと思っていたい。しかし、実はこの私こそが、不信仰極まりない態度を取っていたのだと。

 

 こういうことに気づき始めると、大きく変化が与えられていく。

 さらにステファノが言っていることに注目してください。ステファノはこう言いました。

 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

 「聖霊に逆らっている」

 どういう意味でしょうか。聖霊というのは、現在ここにおられ、今ここで働いておられる、目に見えない神です。今ここにある神様のお働きに反している。それが自分たちが正しい、イエス様が間違っていると指摘して、イエス様を十字架にかけていった人々がしたことでした。イエス様がすぐちかくにおられるという臨場感。すなわち、聖霊のご臨在を味わっていると、「自分が正しくてあいつが間違っている」などという愚かな議論の前にいるのではなく。主イエスに聞くという態度になるのです。

 神の御前にでる、神との交わりを持っているとどうなるでしょうか。

 とにかく低く柔らかくなります。

 「聖霊に逆らっている」ということを指摘されてしまうのですから。自分が誤っているということを認めざるを得ないのですから。悔い改めの歩みが常になるのですから。毎日毎日、自分の意識がおかしかったということに気づいてしまうのですから。それは低く低く、小さな小さな羊であるということに気づかされるのです。

 

 特にユダヤからしたら異邦人である我々は文化的には、多神教的な文化の中にあると言わざるを得ない。そんな中で、唯一なる神を信じるということが、なかなか身に染みてわかってこない部分がある。私は早稲田大学の社会科学部に在学中に、ゼミの先輩に「あなた、クリスチャンなんだって、日本人がクリスチャンになるのってとっても難しいこと。一神教的な文化にはなじめないと思うよ」って言われたのを思い出します。まことに先輩がおっしゃられていたことって正しかったなと思う部分があります。

 未だに、「全能の父なる神」ということを心底信じ切れていない自分がいるなと、毎日毎日牧師室を出るたびに思うのです。というのもメズーザという木の箱を、牧師室の戸口に括りつけてあるのですが。それはユダヤの人たちが皆おこなっていることで、その箱の表面にはエルシャダイ、全能の父なる神、という意味の言葉が刻まれている。

 私はなかなか神が全能であるということに全幅の信頼をもって、そのことが人生の隅々にわたっていくような生活ができていない、ということに毎日毎日気づかざるを得ないのです。

 そうなると、悔い改め、方向転換、自分こそが誤っているということを認め続けるしかない歩みとなります。

 そうなれば、尊大になることなどできないはずなのです。しかしそれでも尊大で、傲慢で、人を裁く自分をもまた発見せざるを得ない。

 自分の中で、信仰と不信仰と、霊と肉との対立があるということを感じざるを得ないのです。使徒パウロがこのように言っている言葉はまさに、真理。

 私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのため、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。(ガラテヤの信徒への手紙5:16、17、新約343)

 

 肉の欲というのは、私たちが自分で思うことです。肉というのは、神が示すものと違う私たちの内側から湧き出してくる自分の思いのことです。私が自分で思うことと神が思われること、神が良しとしてくださることは対立していることがかなりあります。

 私の思いは、あなたがたの思いとは異なり私の道は、あなたがたの道とは異なる――主の仰せ。天が地よりも高いように私の道はあなたがたの道より高く私の思いはあなたがたの思いより高い。イザヤ書55:8、9、旧約1137)

 霊の望むこと、聖霊の望まれること、神が思われることというのは、私たちが考えていることと次元が違います。天と地ほどに違う。高さが違います。もっともっと俯瞰しています。私たちのすべてをわかったうえで、私たちをみてくださる力です。この次元の違いということを認識して、神様のもとに走り寄っていくのです。

 教会が一致とか愛とかを失っているときって、すごく視点が低いときです。自分がこう思うっていうことに溺れ切っている人が、その汚れ、毒をまき散らして、その毒によって影響をうける優しいひとたちが一杯でてきてしまったりするんです。それで全体的に腐ってしまって、意識が天に行かず、自分たちのところでとどまって大変なことになります。代々の教会が経験してきたことです。

 

 イエス様のお姿によって、私たちは神様のご愛を知りました。どれだけ私たちのためにすべてをささげつくしてくださるお方なのか、その命さえささげて下さるお方なのだということがわかりました。そのイエス様のお姿を知ることによって、私たちは聖書66巻を読めるようになります。この中に、まことに神様のお姿が示されていることがすんなりと理解することができるようになります。より、高い次元で主イエスのお姿や神様のお姿を見れるようになって、神のさまのご愛のご計画がよくわかるようになります。

 

 いまここで働かれている神様の姿が、イエス様のお姿からよくわかるようになって。神様がどれだけ忍耐強く伴走してくださるお方なのかわかり、聖書の歴史に描かれている、すべてが主の導きの中でのことだということもわかるようになってくるのです。

 

 私は教会に導かれたときから、非常に自分の肉の要素が強すぎたと思います。

 というのも、常に怒っていたからです。初めに導かれた教会においては、教会の内部に対立があって、分派ができてもめていました。その状況を見てキレてしまっていて。。。今思うと、そういう状況だからこそ、そこに神様の言葉と義とをもって主が望んでくださることを信じながら、主がまさに私によって働かれると信じていったら良かったと思うのですが、俯瞰することが全然できなくて、正直「なんなんだこの状況は、ひどすぎる」といって怒ってしまっていました。そんな小さな視点しか見えない自分というか、自分の感情とか、自分の視点に、すなわち肉のこだわりに凝り固まった自分というのは、信仰が与えられてから何十年もそのままだった気がします。というのも、やはりそのことに気づいて悔い改めないとかわらないわけですよね。

 

 だから、ステファノから「心と耳に割礼のない人たち」としっかりと言われているうちが、まだ花なのです。まだ腐りきってはいない。まだ、悔い改めることができる。まさに、この言葉をどこかで聞いていたであろう使徒パウロは、このことばを聞いて悔い改めていった人の一人となったのです。そこから驚くべき教会の快進撃がはじめられていくのですよね。

 

 肉の目で小さなものしかみていないうちは、目の前の数メートルのことしかみていなくて怒り散らしている。

 

 しかし、霊の目を開いて、神のご計画と、与えられた使命を見始めると、大きな視点で。それゆえに、自分の愚かさにも気づいて、自分が何も見てこなかったことに気づいて、正しくものごとを見ることがきるようになってくるのです。

 すると、ここにもそこにもそこかしこに。いやこんなところに神のお働きが、ステファノの殺害に賛同しているサウロさんが、やがて悔い改めて恐ろしく大きなはたきをすることなどを見るようになってしまうのです。

 聖書の歴史で見ているスパンって大体おおざっぱにいって4000年のそれ以上ともいえますが、壮大な神の歴史がこの頭に入ってくるわけですよ。

 

 エレミヤ書にはバビロン捕囚は70年と記されていますが、この期間でさえ、主の導きの歴史として受け入れることができる。この期間にこそ、旧約聖書の大部分が言葉化されて残されたのですから。

 

 ステファノの言葉、本当に癒されます。今のこの私に必要な言葉。神のご計画。主イエスの十字架。その十字架に対する自分の態度を確かめよ。キリストの迫害者となってはいないか。大きな視点で、俯瞰して、自分をもう一度見直す。

 ノアの時代に、地が堕落していったと表現されて、そこには暴虐が満ちていた。という風に記されていますが、そのように聖書はたった一言で、人間の現実を刺し貫いて本質を見破ります。暴力がそこにあるとき、主を失って暴虐がそこにあるとき、汚れの中の汚れの中にいる。そんな時代の大きな流れの中でも、どうぞ、ステファノのように、主を見上げて、主に仕えて。主の言葉に従う人は天使のようなお顔になりますので、どうぞ、希望をもって歩んでください。アーメン。