2022年8月21日主日礼拝説教 マタイによる福音書23:13~24 「正義、慈悲、誠実」

 こうすべし、ああすべし。

 いろいろあります。聖書からもたくさん「ベキ論」が見えてきます。

 しかし、大切なのは神様のご存在です。

 

 大切なのは、私たちの存在そのもの、命である。

 

 当然の当然の前提こそ大事です。しかし、それがないがしろにされてしまうのだということが、イエス様のお言葉から見えてきます。

 

 その状態をイエス様はこのように表現なさいました。

 ものの見えない案内人たち、あなたがたは、ぶよは漉して除くが、らくだは吞み込んでいる。(マタイによる福音書23:24、新約45)

 

 ぶよもらくだも汚れた動物と、旧約聖書の律法ではされていました。一番小さなものがぶよ、一番大きなものがらくだでした。

 

 一番小さな小さな汚れについては、神経質にそれを取り除こうとしている。こうすべきという論法に走るファリサイ派や律法学者の姿が、イエス様にはそのように写っているのです。だけれども、彼らは実際はらくだのような巨大な汚れを飲み込んでいる。

 大バカ者の中の大バカ者。ということですね。

 聞く耳と悔い改める柔らかい心がないかぎり、こんなこと言われたら、逆上して、切れてしまいます。。。

 そのような言葉をファリサイ派と律法学者にイエス様はぶつけておられたのです。

 

 人を裁くとき、いつもこのような罠に自分が陥っていることに気づきます。

 イエス様の他のたとえを思い起こします。

 「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。(マタイによる福音書7:1~5、新約11)

 自分の目には、巨大な丸太がぶっささっていて、それを放置して、一生懸命人の目にある小さなミクロなホコリのようなゴミを取り除こうとして、それを指摘して目に丸太がぶっさっさったまま無様にもキレている。。。と、そういうことによくなります。

 

 そういうような姿を私が呈していたら、「ばっかじゃないの」ってさげすんで気づかせてくださいね(汗。まぁ、よくなります。。。大のおとなに、まっこうから「バカじゃないの」って言えないし、言ったら喧嘩になるし。。。が展開されること多しです。

 

 でも、恐ろしいですね。イエス様は強大な力をもっている、ユダヤ教エスタブリッシュメント、体制、支配階級、当局者に向かって、言っちゃうんですよ。痛快ですよね。

 こういうお方じゃなければ、私はついていこうと思わなかったと思うんですよね。だから、本当に主イエスは、私たちにお優しいお方であると思います。

 本当に真実を求める人たちに、理解できるように、強烈に強烈に主はご自分の命をかけて、行動してくださっていますよね。だけど、だからこそ、十字架に必ずかけれれてしまうということになります。

 ユダヤ教の最高法院の面々とか、超優秀な学者たちとか、地域共同体で力を持っていた人たちとか、そういう人たちに「あほか、くず(言葉が悪くてすみませんが。。。)」というそんな下品な言葉は使わないにしても、内容的にそう言っているようにしか私には聞こえないことを主イエスはおっしゃいますね。

 

 しかも、真実の中の真実をついていることなので、耳を傾けようとするとよくわかってきます。

 

 具体的な内容としては、本日の箇所はこうです。

 誓いについての話が展開されていて、神殿に対して誓ったらそれを破ってもいいが、ささげられている黄金にかけて誓いを立てたら守らなきゃならないという、自分たちで考えたその独特なルールによって、人々の信仰を縛りつけ、自分たちがまるで主の教えを全部知っているかのような顔をしている。

 その人たちに対して、「地獄の子」を作り出しているとまで主イエスはおっしゃられます。

 

 本当に大切なことに向き合うことができるようになる。

 それが救われたものと言いますか、神のもとに立ち帰ったものたちにとって極めて重要な内容じゃないですか。教会がまさに宣べ伝える内容の内容です。

 神との関係が回復したんだと。あの旧約聖書のソロモンが祈ったような祈りが一人一人の内に実現してくと。

 今まで全然、神様のほうを向いていなかったような人も、神様の方に向き直って心から祈るのであれば、異邦人であろうが、人からさげすまれているような状態であろうが、どんなことが起こっていても、最低最悪の現実を甘んじなければならなくなってしまっていても、主よどうか、その祈りを聞いてくださいという、あのソロモンの祈りです(列王記下8章)。

 

 どんな誓いをするか、何ができるか。何をしていいのか、悪いのか、その子細なことについて知識をもっていて、それを実行できるのかどうか。

 そういうことが大事なことの中心ではないです。

 

 神様との語り合いこそ、神様がそこにおられて、神様がどれだけ偉大なかたで、私たちを憐れんでくださって、私たちのその視線を注いでくださっていて。約束の言葉をもって民を導き、不思議な業を行ってくださるということこそ大事なのです。

 

 そのお方が、私に目をとめてくださっている。その心と思いとに向き合って、私たちが主のご存在を喜ぶこと。そのお方の前に常に行動しようとすること。慕わしくて仕方がなくて、なんとか仕えたいと思うこと。

 

 誓いが正しいのか正しくないのか、どれが有効で、どれが無効なのか。そういうことが大事なことではないです。そうではなくて、大事なのは、神様ご本人のご存在です。

 

 

 日本人の信仰心、心。すばらしいものがあるとは思います。

 本当に忠実で真面目で、すごいですね。

 ごめんなさい、でも私、日本人的な信じ方って全然楽しくないと思います。

 

 だって結局、なんか子どもが親に対して「こういうの買ってくれ」っていって、それが実現したら喜んで的な、神頼み的な感じで常に終わるじゃないですか。特に神的な、宗教的な事柄に関して。。。

 

 そんなの、つまらなすぎます。

 そんなん、得たら終わりじゃない。

 物なんて、得たら全部終わりでしょ。

 ご利益なんて得たらそれだけで満足して終わりでしょ。

 

 神様がどういうお方か知って、どれだけ私のことじっと見ていたのかを思い知って、ここもですかここもですかって知って。まさに恋愛のようですよね、神様との関係性って。

 聖書を通してご自分のご性質を証してくださっているので、その先輩たちの記述を見つつ、自分の人生に確かに、私の祈りに応えてくださって、どんな小さなことにも、お手紙くださるような。神様のこころの中で実は徹底的に包まれていて。。。

 やばいんですよ。小説なんかを読みながら、映画なんかを見ながら「こういう感情で満たされたい」って思ってきたようなことがことごとくこのお方との関係の中にあって。

 得たかった。体験したかった、その憧れのすべてが実はここにあったって思える出会いなんですよ。

 

 人生全部バラ色に変化しちゃう出会いです。

 バラ色って卑近すぎますが、聖書ではそれを光と言います。パウロさんって、牢獄にとらえられていても、前に進めるって思っていた人でしたよ。看守が彼の姿をみて愛を見出し、牢獄から書いた手紙で2000年後のいま私は動かされています。

 本当に彼が信じた光があの2000年前の牢獄から放射されているんですよ!

 

 本日の説教のタイトルは「正義、慈悲、誠実」です。この性質というのは、神様ご自身の心を指し示す言葉です。律法の中で(聖書の中)で大事なのは、私たちに何ができるかじゃなくて、神様が、イエス様がどのようなお方かということです。

 

 集中するポイントがずれるとどうなるかというと、自分がどれだけ良い捧げものをしたのかというようなことを人に見せたくなります。自分がどれだけ良い働きをしたのかということを誇りたくなって、人に言いたくなります。人がどれだけ間違っているのかということを指摘し、自分がどれだけまっとうかを示したくなったりします。

 こういう、人に見せたいというようなことは、様々な形で表面化していくことになります。

 問題が起こっているところって、かなりこの問題の変化形じゃないですか?

 

 しかし、大事なのは、何度もいうように、私たちが神の子であり、私たちが神を父と呼ぶというこのシンプルな関係性。

 そして、大事なのはどれだけ深く私たちが主を知っているかということです。

 その主の姿をありありと、この心のうちに感動の熱をもってうつしているのかどうかということですね。

 

 使徒パウロの言葉の中にこんな言葉があります。

 酒に酔ってはなりません。それは身を持ち崩す元です。むしろ、霊に満たされ、互いに詩と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。(エフェソの信徒への手紙5:18、19、新約351)

 酒を飲んではいけませんというわけではありません。酒を飲むのか飲まないのかは自由です。しかし、酔ってはいけないと書かれている。

 なぜ酔ってはいけないのかというと、私たちが酔うべきは、主だからです。主の心だからです。それが「互いに詩と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい」ということの内容です。

 主の心に酔っぱらってないと、酒に酔わなければならなくなります。

 

 人は弱いものです。必ず何かに逃げます。

 それが、人によっては酒であり、食べ物であったり、人との関係であったり、金であったり、仕事であったり、人にどう見えるかという自我の評価であったり。様々です。

 風にそよぐ葦のように弱い私たちは、その弱さから逃げるために逃げ場を必要とするのです。その逃げ場は、主でなければなりません。

 なぜなら、他のものに逃げると、大変な結末が待っているからですだんだんだんだん闇に入って行って、その行きつく先は滅びとなります。

 

 私はよく言います。「この世で展開されている事柄は、常にエデンの園的な現実ですよ」って。

 善悪の知識の木の実を取るか、それともいのちの木の実を取るか。その二者択一が目の前に実は置かれています。

 神様との関係を壊すようなことをするのか、神様との関係を大事にするのか。

 

 イエス様と、ファリサイ派と律法学者の人とのやり取りで、何が命であり、何が滅びに向かうのか、次々と明らかになってきますね。

 何を選ぶのかは自由ですし、神との関係を選び取ろうと思えば選び取ることができる自由が与えられている。

 主イエスの十字架の御業によって帰る道はもう整えられている。

 その道をとって、イエス様との関係性をとって、祈りに帰ってくるか。

 それとも自分のしたいようにして、滅びに至るのか。そのどちらかだということです。

 

 正しい方を皆様は選び取ってください。祈りましょう。アーメン。