2022年9月4日 主日礼拝説教 マタイによる福音書23:25~39 「偽善者は嫌い」

「人の目にどのように映るのか」が重要な行動規範となっている。

 そんな自分がどこかにいることを認めざるを得ません。

 そのような自分がいるから、いつも何かにおびえ、神を恐れず、神以外の何かを恐れるという生活をせざるを得ないことを思います。

 

 しかし、主が与ようとされているのは、そのような「おびえた生活」ではありません。おびえているのではなくて、命にあふれる状態です。それは命がのびのびと生命力を発揮し、「躍動」というような言葉で表現できる状態です。

 しかも感謝と喜びに満ちて、主がご一緒してくだることに信頼を置きながらです。

 

 主は命が躍動する様を求めておられるんだということが聖書のあらゆる記述から見えてくることです。特にソロモンの神殿(第一神殿)の造られ方をみると、その方向性が良くわかってきます(ソロモン神殿と検索してみてください)。

 

 しかし、私たちは、どんなに信仰生活を続けていようとも、神様以外の何かを恐れてしまうということからなかなか離れることができずにいます。それを現代の科学はミトコンドリアが危機を回避する方向に人間の意識を向かわせるのだとか、脳の偏桃体が危険に反応してすべてを忘れて第一に危機に対処できるように、こころが全部奪われるように脳ができているんだとか説明します。それは生き残り、すなわち生存本能にもとずくものだと。

 信仰生活をはじめてから20年以上たっている私でも、神がおっしゃることよりも、人が何を言うのかを恐れてしまっているところがあるのを認めざるを得ません。

 特にこの愛する日本の民は、隣の人が何を言うかが自分の命を左右するものであると理解し、受け止めているのですね。だから、本能的に隣人が言うことを常に恐怖するという文脈になるんだと思います。

 

 しかし、主は、私たちに命の道を指し示してくださいます。命の道がどのようなものであり、死というものがどのようなものなのかを私たちに見せてくださるのです。

 

 その命と死との対比が見えてくるのが、「ユダヤ教ファリサイ派と律法学者」とイエス様の対話です。

 

 イエス様は明らかにファリサイ派と律法学者を敵対視しておられます。

 それゆえに、彼らはイエス様を殺そうとしています。

 イエス様は、殺そうとしてくる人たちに対して恐れを抱くのではなく、信じるということを体をもって見せてくださいます。

 

 ユダヤ教の中心的な人たちは、神が全能者であるということを誰よりも深く探求してきたはずです。神は、すべてをご存じであり、オールマイティで、支配し、計画し、導き、裁かれるお方であることを知っているはずなのです。

 しかし、彼らはその基本的なことをまるで信じてはいないかのような態度をイエス様の御前で呈していきます。

 

 なぜなのでしょうか。

 

 彼らには、体裁がありました。世間体がありました。私たちと同じように、隣の人が何をいうかを極端に恐れて、それゆえに、人に良く見られるということが行動規範になっちゃっている。そういう人たちがいたということがわかります。

 だから、この共同体の中でいかに敬われるのか。いかに自分が人よりも重要視されるのか、が第一になってしまっていたのです。

 

 そういう思いというのは、神から離れた思いです。

 なぜなら神様が唯一にあがめられるべきお方であるからです。神様だけがあがめられ賛美されるべきお方。人間はすべて与えられた中を生きているにすぎないのです。

 人間の力などというのは本当にちっぽけなものでしかありません。

 聖書の中に記されているのは、そのような偉大な、全能なる神のお姿です。

 だから、聖書のいつも永遠に変わらない内容は「主に聞け」ということです。

 

 しかし、彼らは神よりも、自分たちがどのように見られるのかということに聞き耳を立てて、心が奪われていた。それゆえに、神よりも別のものが先立つ状態に陥ったのです。

 

 これが死なのです。

 死が内側を支配していたのです。

 

 皆様、聖書を知っている民が必ず理解しなければならないのは、死ぬとはどういうことなのかということです。

 死んでいるか生きているかは、心の中心になにがあるかということなのです。我々は心の中に何があっても別に人に見えていないから良いと考えますよね。でも、イエス様は全く違いますよ。心の中が大事だとおっしゃられるのです。心の中でもしも姦淫を犯したなら、実際に犯したことと同じだとさえおっしゃいましたよね(マタイによる福音書5:28)。

 

 新約聖書になると、神殿とは人間そのものであるという理解が生まれていきます(第一コリント3:16)。

 神殿がかつてあった時代、共同体が生きるか死ぬかは、神殿の中心に、契約の箱があり、そこに主がご臨在くださるかということでありました。

 いつも大事なことで、神様が注目しておられるのは、中心に何があるかです。

 その中心に別のものを人はおきはじめます。

 土着の神々であったり、自分たちがこれが神であると思うものとか、人とか、富とか。

 とにかくその神殿の中心になにがあるかです。

 それによって死か、命かが決まる。

 それが私たちが聖書から聞くことができる、驚くべき世界観、死生観であります。

 

 神を中心にすると命が溢れます。そして、人々を満たすのです。

 イエス様のお姿を想像してください。苦しみを抱えていた人たちは皆、イエス様に触れてほしいと直感的に思ったのです。またイエス様に近づいていきたいと思ったのです。

 それは内側に命が溢れているのがわかったからですよね。

 

 死か、命か、なのです。

 赤ちゃんの内って神の国が溢れていると思いますよね。

 赤ちゃんにこのおじさん(石井牧師)のばい菌がうつっちゃうとかわいそうだから、さわっちゃまずいかなと思いますが(笑)。

 そのやわらかい素肌に触れたくなりますね。命が溢れているからですよね。

 

 なんですか、あの柔和さ。歩く姿一つ見てるだけで癒されるじゃないですか。

 

 イエス様は神様ご本人であるので、さらに聖いお方であります。そう、イエス様には触れたいし、触れていただきたい。それは身体的なものだけじゃない。精神的にその柔和さの中に入って行きたい。イエス様の心に浴したい。そうすれば癒されるだろうなぁってみんな思いますよね。

 

 イエス様が、ファリサイ派と律法学者のことを「白く塗った墓」と表現しました。

 それはどういうことかというと。「触れちゃいけないもの」とおっしゃったということです。

 いやぁ、なんというひどいことをイエス様はおっしゃられるんでしょうか!

 強烈な言葉です。人にそんなこと言うか、というような、現代で言ったら差別発言ととられても仕方がないぐらい強烈な言葉ですよ。「あいつらには触るな」って暗に言っておられるんですからね。

 

 墓は内側に死が満ちているから、その死という汚れに触れちゃいけないので、あえて目立つように墓を白く塗っていました。さわっちゃいけないから、白く塗った。ユダヤ人の感覚というのはそういうものだったんですね。

 私たちは教会を白く塗っていますし、この間入口の壁を塗り替えて、やっぱり白く塗りましたけれども、私はたちはこの宮が神様の宮として聖いものであるのだという思いを込めつつ白く塗るわけですよね。イエス様が白い衣を着ておられると皆が思っているように。

 しかし、イエス様が本日の聖書の箇所でおっしゃられたのは、全然別の、すごい言葉です。

 

 このファリサイ派の人たち、律法学者には絶対にふれちゃいけないよ、汚れている、、、です。

 

 イエス様がおっしゃりたいことがわかります。それは、死に触れるのではなくて、命に触れなさいよということです。 

 死に支配されているような状態に気づけよということです。

 

 皆さん、イエス様のもとに必ず帰ってくださいね。

 立ち帰るものを何がなんでも迎え入れるのが主だからです。

 私、旧約聖書ダビデさんを愛していますが。

 このダビデさん、男としては絶対に死ぬべき許されざる愚かものです。大馬鹿ものです。自分の罪を隠そうとして、純粋無垢で自分に忠実な命を捨てる兵士を、自分の手で殺してしまうのです。

 誰かを守ろうとしてとかということじゃないんですよ。自分の恥ずかしい不倫を隠そうとしてです。

 絶対にあるまじき、切腹必死なヤツです。

 

 しかしですよ。神はこのダビデをお赦しになられるのです。神様の憐れみは恐ろしすぎますよ。 

 立ち帰るものを死んでも迎え入れる。立ち帰るものは御子を十字架にかけてでも迎え入れる。宇宙のすべてをかけてでも、立ち帰るものは迎え入れるということですよね。

 

 私は、もうこんな主の恐ろしい狂気のような愛にふれて、それを受け入れる器とされたので。そのことを静かに黙想すればするほどに。もう死んでもよいぐらいです。

 

 宇宙のすべてをかけても、御子の命をかけてでもお前を救い出す。

 聖書からそのような心がしみ込んできます。

 それを聞けただけで死んでいい。

 

 それがこの世界に響き続けている福音ですね。

 

 この心に触れて、感動して、内側から熱が、エナジーが与えられる。だから、三十倍、六十倍、百倍に成長するぞと主イエスはおっしゃられたわけです。

 

 

 しかし、死とはなんですか。

 自分が正しいと言いたい。その行動がにじみ出ちゃって。人に対してはむちゃくちゃ厳しくて、自分に対しては死ぬほど甘いというか、自分の悪いところは全部不問にして、素通り、人を責めまくっているような状態ですよ。

 そんな人にだれが近づきたいと思いますか。だれがその人によって癒されると思いますか。

 だから、孤独と不安の中にまたはまっていきます。

 

 実際ファリサイ派と律法学者の間にあったのは、敵をイエス様とさだめて一緒に攻撃するという死の思いと、自分たちの正しさを競い合う思いによって、互いに裁きあう愚かさですよね。

 そのようは思いは恐ろしいことに、やがて、預言者を殺すという形で結実してしまいます。

 この新約聖書の時代はイエス様を十字架にかけて殺すということで結実してしまいました。

 

 だけれども驚くべきは、そこから、後の人々の、全人類の救いのための御業が生み出されていくという驚くべき十字架の御業へとつながります。

 神様の御業を見てください。

 

 死から命へ。

 死から命へ。

 死から命へ。

 

 です。間違いなく常にこのようになります。私たちが立ち帰ってイエス様の命にあずかるのならばです。それが聖書が教えていることです。

 立ち帰らなかった場合に起こることは何ですか。死です。自分の死だけじゃありません。正しい人を殺すという形でそれが実ってしまって、やがて内側にあったことが表にでてきて物事が起こってしまうのです。

 本当に人間って恐ろしいです。内側にあることがそのままやがてでてきますよね。

 思ったことを実現させてしまう力があります。神様がそのような力を与えられたのですね。

 

 皆様は神様の宝です、神殿です。尊い神の愛を宿す器です。その真ん中に何がおさめられているのか。 

 大切に大切に、イエス様がそこにおられるように願って、イエス様に跪いているのか。

 

 そうではなくて、別の何かがそこにあるか。

 いくら表面を繕っても無駄です。

 それがやがて表にでてきて、人への態度になります。

 

 ありがたいことに、私たちはどんな状態にあろうとも、その神の宮がすべて清められて新しくはじめられるという福音の中にあります。イエス様に頼れば、すべてが変えられます。心の中心が清められて変われば、間違いなくすべてが変わります。今、どんな状態でも、安心してください。皆様には未来があり、成長があります。イエス様の御前にこられたので。アーメン。