2023年11月5日 永眠者記念礼拝   ヨハネによる福音書11:17~27 イザヤ書49:14~16 「主のもとに刻まれいのち」石井和典牧師

 神に忘れられた人などいません。神の導きが驚くほどにあったはずです。

 神の導きがなかった人などいません。人間の側が神を忘れて神を見過ごして、見落として、忘れてしまうだけです。

 主はご自分の民に対して宣言なさいます。

 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても私はあなたを忘れないイザヤ書49:15、旧約1128)

 母乳を与えている母親は自分の子どもを忘れることは決してできません。お乳を与えなければ胸が張って痛むのです。一瞬たりとて忘れることはない。

 その母親よりももっと深い愛で、信じるものたちをつつみこんでいると、神は宣言なさっておられる。

 憐みというヘブライ語には「自分の胎を痛める」という意味もあります。だから子どもと一心同体として、子どもの痛みを自分の痛みとする母親のような愛をもって。それ以上の愛をもってと本日のところには宣言されています。それが神の愛であるということです。

 私は大阪のぞみ教会時代に、墓地を池田の五月山というところに建てましたが、その時の墓地のイメージはこのイザヤ書49のイメージで造りました。墓碑が両側にあって、それはイエス様の手をイメージして、イエス様が信徒の名前をご自分の手のひらに刻み付けてくださっているという感じです。

 罪人である人間は、愛に生きるって言ったって、何かの拍子に自分を守るために手のひら返しをして、この人は違うってすぐにいいはじめます。

 しかし、天の父なる神は違うのです。手のひら返しはしない。手のひらに私たちを刻み付けておられるので、とことん私たちのために胎を痛めて、ご一緒に苦しんでくださるのです。

 

 それが十字架の御業です。そこまで主がなさるのですかという業です。私たちの罪の汚れのすべてを背負われ、ご自分が犠牲となられて死ぬということが結論。

 その結果、主イエスの御業を信じるものたちは皆救われるのです。ここにすべてをかけるのが教会。主イエスの心にすべてをかけるのです。

 

 ただ不思議なことに、イザヤ書の時代のイスラエルもそうですが、神に守られているはずが一度滅ぶということを経験します。新約聖書ヨハネによる福音書もそうですが、ラザロは一度死にます。そこから復活します。

 人間が抱えているものは、一度無に帰するような状態にさせられるということが起こって、そこから回復、復活の道のりをたどることになります。完膚なきまでに破壊されてとか、打ち砕かれてとか、そこまでいって人は神の力を本当の意味で悟るということが起こるのでしょう。

 そこまで、主は忍耐して待っておられるのです。

 だから、人間の死がすべては取り除けられることはないのでしょう。最後の最後で主に信頼をささげる訓練のためです。

 

 本当に信頼を主にだけ、信仰にだけ置く。そこに至るまでの道のりに何があったとしても、至ることができるように信じるものたちに試練を与え、その試練を超えることで、真に主を信頼する信仰にたつことができるように導いてくださるのです。

 

 聖書は、はじめから最後まで「信仰のみ」です。信仰の祖であるアブラハムという「すべての国民の父」という意味のはじめの人、この人は、なぜ神によって義しいと認められたのかというと、「信仰によって」です。そのことがこういう言葉で残っています。

 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6、旧約18)

 

 このお方だけが、信頼に足る、信じる、この方が私の決め手。私の頼るべきかた。何があってもこのお方にだけ頼る。他の何かじゃないということです。それが唯一神信仰のキモです。このお方だけという信仰です。

 そこに立てるようになるために、試練が与えられ、時に人生が崩壊したかのように見えることもあります。

 ヨハネによる福音書の11章のラザロの記事を見ると、イエス様はラザロが死ぬ前にラザロのところに急行して、死なないようにすることもおできになりました。時間的な猶予がありました。

 しかし、ラザロが死ぬのを待っておられました!

 そして、死んでからベタニアに登場なさり、非常に重要な信仰の言葉を残してくださったわけです。それは後の人間たちがこのイエス様の言葉によって励まされて、力をいただくためでもあると思います。

 

 というのも、私はできるだけこのイエス様の言葉を葬儀で引用するようにしています。以下のような言葉です。後の牧師たちや主を信じるものたちが、常に葬儀で、人生の最悪の場面とも言えなくもないところで、この言葉を引用しつづけることができるようにしてくださったのです。

 エスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」ヨハネによる福音書11:25、26、新約185)

 イエス様が命そのものなんです。このお方とつながることが命です。

 「私はぶどうの木あなたがたはその枝である」と主イエスはおっしゃられましたが、その通りで、イエス様とつながっていることがいのちなのです。

 だから、肉体において死んだとしても、生きるということ。それをラザロの生涯を通して私たちに見せてくださったのです。

 だから、「死んでも生きる」のです。

 肉においては確実に死にますね。しかし、死んでも生きるのです。それを主が宣言さなれ、そのことが事実であることを見せるためにラザロを復活させられました。

 といっても、またその後ラザロは死にました。

 しかし、ラザロは肉においては死にますが、決して死なない世界を知ってしまいました。それは、主イエスが覚えていてくだされば、いつでも肉を復活させることができるし、イエス様が覚えてくださるということは、それは「死なない」ということを意味するのだなということです。

 

 ということは、毎日祈りの中に生きて、イエス様が私を覚えてくださっているという実感しているすべてのひとは、もはや死なないということです!もう、死はなくなりました。

 葬儀の後、火葬前式で私は必ず以下の御言葉を引用します。ヨハネ黙示録の言葉です。

 そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:3、4、新約464)

 ここで宣言されるのは新しい天と地における、死のない世界。新しい創造を味わう世界。だから、異次元の言葉というか、後の世の言葉と言えます。

 しかし、クリスチャンたちはこの世界を、自分の命の中で味わうのです。

 「もはや死はない」という世界です。

 私は、イエス様がおっしゃるのですから、信じるものたちには「死はない」と思います。私を信じるものは死んでも生きるとイエス様が宣言されているのですから。イエス様が宣言なさったことで、裏切られたことはありません。

 

 なにより大事なのは「信じるものは」ということです。人類のはじめの時から変わらず、「信じるもの」が義と認められ、主の御許に導かれるのです。これは変わらない。信頼によって命に結びつくのです。

 信頼がないと命が生まれ、はぐくまれ、育てあげられて継続されていくということは起こりません。

 共同体の最小単位の家庭においてもそうですし。男女間においても信頼関係がなければ子どもを健全にはぐくむことは不可能です。

 だから、はじめから信じることがすべてなのです。信頼は命、命は信頼。信じることです。命とむすびつけるのは、信じるということです。

 

 主イエスを信じ、結びつくことによって復活していく命。回復、癒し。

 これらが人生の只中で経験されるようになります。私の人生が回復されます。どれだけ壊れてしまっている状態であったとしても関係ありません。

 

 というか、イザヤ書の預言というのは、国が崩壊し、焼け野原という時代の預言です。もう何もなくなってしまったところからのスタートの預言です。

 焼け野原になってしまったから、民は叫ぶわけです「わたしの主は私を忘れられた」のじゃないかと。

 でも、そこからスタートできる世界があります。忘れられてしまったかのように思える絶望の地点というのは、もう人間の力ではどうにもならないと思えてしまう地点でしょう。

 人間の力ではどうにもならないことに気づくことが大切なのです。そこまで、主は気づくために待っておられたのかもしれません。

 本質的に大事なことを見失って全部失うところまで。私たちが別の方向をむいてしまっていて、その結果すべてを失うような大失敗の中に放り込まれてしまっているのかもしれない。

 しかし、それでも。主の親心は、父の心は、母の心は、信じるものたちから離れることはありません。

 あるとすれば、私たちが自らの意思で主をいらないと言い切るときです。

 

 主に聞くこともせずに、聖書に聞くこともせずに、自分の思いだけで、物事を判断し、行動するようなとき。その時には、自ら主を捨ててしまうということになります。しかし、何度でも私たちが帰るのならば道があります。何があっても絶対に見捨てられることはありません。それがイスラエルの歴史からわかります。

 

 イスラエルの民というのは、見捨てられてもしかたがない罪を犯し続けました。聖書の言葉を脇においやり、旧約聖書を忘れ、神殿の中には唯一の神ではなくて、自分たちの欲望の投影である像が置かれていきました。

 その結果、主が啓示してくださった預言者たちの言葉などはどこかに吹き飛び、神殿は魑魅魍魎の闊歩する、神様とは全く関係のないような、わけのわからないごちゃごちゃな状態になりました。そして、力を失いました。力を失った国は崩壊しました。

 

 こういう民は見捨てられてしかるべし、と言えるかもしれません。しかし、不思議とこの民の中に信頼に生きるものたちが残されていく。

 それでも信頼に生きて、神が救いの御手をさしのべてくださるという、神の憐れみに徹底的に立つものたちが、神のご性質とはこうだったねと思い出すものたちが現れてくるわけです。その小さな小さな一人から、驚くべき改革と驚くべき復活と、驚くべき癒しが流れ始めます。

 

 信頼に生きる者たちが残していったことばが本日朗読したイザヤ書なわけです。

 主がどういうお方だったのかというところに立っています。

 母親のようであり、いやそれ以上の深い憐みを胎を痛めるような子どもに対する愛をもってられて、何があっても私は忘れられることはないのだと。だからこの主にすべてを委ね、すがって立ち帰ろうと。

 

 するとどうでしょうか。主がこれまで失ったものすべてを回復させて、復活させてくださるというのです。

 

 あなたが失った子らが再びあなたに告げるであろう。「この場所は私には狭すぎます。住む場所を与えてください」と。イザヤ書49:20、旧約1128)

 

 失って失って失って、回復不能なまでに崩壊して、そこに一つ信頼の芽が出始めると、驚くほどにすべてを覆いつくして、溢れだしてくだしてくるような成長をとげる出来事が起こる。

 現代における、1340万人のユダヤ人(今日朝調べたら1400万人になっていました)、そして24億人のクリスチャンの存在。それらがこの主の回復の力を現代に物語っています。

 

 主への信頼があれば大丈夫なのです。しかし、それをこそ失っている。別の何かを自分という神殿の中心に置いている。そこから立ち直って、神殿の内側が掃除されてきれいにされ、本当に置くべきものが置かれ、主への信頼が中心になったとき、すべてが回復され、命の萌芽を目の当たりにすることができ、ここでは住む場所が狭すぎますとばかりに、命が溢れてくる。その時を見るために、私たちが召されていることを思い起こしましょう。アーメン。