2023年10月29日   主日礼拝説教 使徒言行録12:13~25 「祈りの結果と傲慢の結果」 石井和典

 ユダヤヘロデ王は、クリスチャンを処刑するとユダヤ人が喜ぶのを見て、繰り返そうとします。ヨハネの兄弟ヤコブを剣にかけ、教会のリーダーであったペトロをも殺そうとしました。

 ペトロは牢にとらえられ、いつその刑の執行がなされるのかという状況でした。

 そこで教会の人々は祈りをささげ続けました。ここが教会の要です。主に信頼をおいて、祈る。すると出来事が起こる。

 

 祈りの結果、天の父なる神が、天の門を開いてくだり、天使を送り、天使が牢獄に捕らえられたペトロの鎖をほどきました。

 絶体絶命の現実というか、誰も助けることができないような万事休すの状況。絶対権力者が目をつけ、その武力によって一人の人間を押しつぶす。恐ろしいことに2000年前は簡単に行われてしまう時代でした。

 人々が祈ったところで、だれがこの現状を変えることができる?しかし、祈りは聞かれるのです。

 

 主の御心にかなった祈りは、何がなんでも聞かれる。奇跡が起こされ聞かれる。

 ということがこの箇所からよくわかると思います。

 

 だから、大切なのは主の心に私たちの側が入って行くということであることがわかります。

 私たちの自我の欲求を祈るということではなくて、主が願ってくださること、主のおこころを私たちのこころとして祈るということです。それはまた、「神の力に信頼して祈る」「神のご愛に信頼して祈る」「神の全能の力を信じて祈る」ということでもあります。

 教会はこの信頼、信仰のみによって動き出すということがわかると思います。

 この神への信頼がなければ祈り始めませんし、諦めてしまったら、主の驚くべき御業を目の当たりにすることはできないのです。

 

 神の御心が結実するまで、耐えて耐えて耐えて祈り続ける。

 これが本来の教会の姿です。

 ペトロが牢獄から出てきて、皆が倒れるほどに驚いて喜んで涙して、神の栄光を仰ぎ見る。ここまで耐えて耐えて耐えて、祈らなければなりません。

 

 祈りの結果起こることは、「祈ったものにだけわかる奇跡の中の奇跡」が起こるということになります。ペトロのために祈っていた人たちは、倒れるほどに喜んで「気が変になったのではないか」というぐらいに驚きの渦の中に入れられます。

 

 迫害の手が強くなればなるほどに、そこに働く神の御手と奇跡は鮮明になります。だから、言い換えると、世に起こる迫害は信仰復興していくための前兆とも言えます。これまでも教会の歴史を見ていきますと、迫害が沢山起こりましたが、迫害は教会を滅ぼすどころか、つねに逆。教会は迫害で復活していく。一人一人の信仰が復活していく。

 

 危機があって、戦いがあるところで、信仰というのは研ぎ澄まされていく。もう、これは実感をもってよくわかります。つらい思いをしている時にこそ、信仰が成長します。聖書の言葉が強烈に響き始める時は、本人にとっては苦しいこと、試練ともいうべきことが取り囲んでいて、四面楚歌の状況に追い込まれているときです。

 強烈に主の力が働き始めるのを目の当たりにするのです。ペトロが牢でそれを実感して、はたとわれにかえってこういったようにです。

 その時、ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」使徒言行録12:11、新約232)

 

 迫害というのは、いつの時代もどんな時もやってくるときはやってくる。表面上迫害のように見えなかったとしてもやってきます。

 迫害は、命を奪い取るものです。非常に冷徹で、欲望のために人を犠牲にする形で迫ってきます。寒々しいものが、強烈に迫りくる。そこには対話も何もありません。ただ、ひたすらに力によって押しつぶし、人の欲望が全面に、自我が全面に、その結果誰かの命が握りつぶされていく。

 ヘロデの姿をみてくだされば、その姿がどんなものかわかります。

 

 人間っていうのは、恐ろしいものです。

 生存本能にもとづく保身のためならば、簡単に暴力的になる。

 自己防衛のため、家族を防衛するため、いろんな理由で、自分を守るために暴力的になります。そこに神の前における不義があったとしてもどうでもよくなる。民の歓心を買うために人を殺すということが神の前にゆるされることかどうか。問うまでもありませんが、「自分の人気が保てるならば」狂気を行ってしまうのです。

 ヘロデも建前上は旧約聖書を信じる信仰者です。しかし、神を信じてはいません。信じていると言いながら実際には信じていないということはいたるところで起こっています。クリスチャンですっていったって本当に主のご存在を信じていなかったら中身はクリスチャンじゃありません。ユダヤ人って言ったって、神を恐れていなかったら中身はユダヤ人じゃないです。ヘロデは中身を失ったユダヤ人だったわけです。

 ペトロの牢を見張っていた番兵たちはその怠慢と失態ゆえに、ヘロデによって殺されてしまいます。

 

 本日の箇所の12章20節以下は話が急に変化して、ティルスとシドンの人々とヘロデとのやり取りになっていきます。このティルスとシドンの人々はヘロデに経済的に助けられていたようです。どういう理由かわかりませんが、ヘロデはこの地の人たちに腹を立てていた。

 で、ヘロデに媚うって、自分たちの思い通りにしたいためか、ヘロデが演説する姿をみて、「神の声だ。人間の声ではない」といってほめたたえたわけです。

 そこで、本来ならばユダヤの王ですから、「神に栄光を帰すべき」立場として神から権威が与えられているのです。が、その立場を忘れ、それは信仰者の王としてすべての栄光を主に帰さなければならないのに、自分に帰されるその栄光を受けて、そのままティルスとシドンの人たちが彼をほめたたえるのをやめさせなかったのです。

 それを神が打ちました。その光景がこのように記されています。

 するとたちまち、主の天使がヘロデを打った。神に栄光を帰さなかったためである。ヘロデは、蛆に食われて息絶えた。使徒言行録12:23、新約233)

 

 神に栄光を帰さなかったということをきっかけに神の裁きが下りました。それまで主は沈黙なさっていたわけです。弟子のヤコブがヘロデに殺されたとき、すぐには主はヘロデに裁きを下されませんでした。

 しかし、主はご自分のタイミングで必ず裁きを行ってくださるお方であることがわかります。

 だから、信じるものたちは何があっても安心していい。

 主は必ず不義を裁かれます。キリストの僕たちに暴力をふるうものを裁かれます。皆様はキリストの体です。キリストの体を壊すものがいれば、そのものを主は必ずお裁きになられます。皆様は主の一部だからです。

 主の神経が張り巡らされていて、時が来れば裁きが下ります。だから、自分で人に復讐することは全く必要ありません。

 そのような思いを抱き続けることによって、人生を棒に振る必要のありません。怒りや、相手に対する呪いは即座に捨て去り、すべての裁きを主にゆだね、必ず主が裁いてくださることに信頼を置くのです。ヘロデという迫害者を裁いてくださるのださった歴史があります。

 安心してその時を待って、忍耐すればいい。自分では手をくだすこととか、復讐することとか一切考える必要がありません。

 そのような信じるものたちの生活の姿を、パウロはローマの信徒への手紙にまとめました。

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙12:19、20、21、新約286)

 怒りを抱き続けるとそれによって、今度は自分が不義を行ってしまうようになります。怒りが膨れ上がっていき、抑えれないほどに暴走する。神に従うのではなくて、自分の怒りに従うようになる。すると暴力的な行動にでてしまっても自分を正当化し続けます。

 だから、怒りを抱いてもその日の内に怒りを捨てないといけません。エフェソの信徒への手紙でもパウロはこのように怒りについてのべています。

 ですから、偽りを捨て、一人一人が隣人に真実を語りなさい。私たちは互いに体の部分だからです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェソの信徒への手紙4:25、26、新約349)

 怒りを抱くことがあっても、というか「怒らないということは不可能」です。

 肉の体に生かされている以上、無理です。しかし、怒りを捨てることは誰にでもできます。その怒りに自分がとどまらず、神の前にすべてを祈りつくすのです。主が必ず正しくお裁きになります。

 しかし、自分の思いを優先してそれを抱き続けると罪を犯します。罪というのは、「的外れ」ということですが。的を当てるということはどういうことかというと、神の方を見るということです。自分の怒りとかそういう激しい思いを持ちづづけていると、それが心の中心になってしまう。すると、的を外しまくるようになります。神じゃなくて、自分になる。

 

 だから、瞬間瞬間、神の御前で自分がどういうものだったのか、そこに立ち帰って我に帰る、ということが特に激しく感情をゆさぶる出来事があったときに大切なのです。エフェソの信徒への手紙には、「神の体」「神の神殿」であるというアイデンティティに帰れと呼びかけ続けるのです。この神の御前における満たされ尽くしている自分ということろに帰らないと、怒りを捨てることが難しいからです。

 この世界に生きる限り、だれかから傷つけられないでとか、害をうけないでとかいう生き方はありません。

 必ず誰かに傷つけられる。痛みを負う。しかし、その時こそ、立ち帰るべきとき。

 「私はキリストの体の一部なのだ」というポイントです。

 だから、もしも信じられないぐらいに傷つけられた出来事があったとしても、それは必ずキリストがご自分の体を守るために反応してくださるし、主のご判断で復讐してくださるかもしれない。

 何かしらの対応をとってくださるから、私はその怒りをおこう。

 これが、パウロが指し示すクリスチャンの生き方です。

 

 ヘロデの姿をみてください。そこにあるのは、「自分の思い」だけです。神を忘れた傲慢さです。

 ティルスとシドンの人たちに対する怒りに燃えるときもある。

 彼らがヘロデをおだてて「神のようだ」っていってあがめてくれたら許してしまったり、全然、神が目の前にいないのです。

 自分の思いだけです。それは信じるものの歩みではありません。

 

 主は傲慢な権威者ヘロデを裁かれました。

 

 キリストが十字架で私たちを勝ち取ってくださったのですから、皆様はキリストと一体、神の体。神殿の一部なのですから、その招きにふさわしくいついかなるときも使徒たちのように、牢獄に捕らわれようが、主がお働きくださることを信じることができる。

 

 祈りの結果起こることは奇跡です。傲慢の結果起こることは主の裁きです。アーメン。