2023年9月17日 主日礼拝説教 使徒言行録10:34~48 「聖霊が降る」 石井和典

 今日は皆様とともに、以下の聖書の言葉を味わえればと思います。ローマの信徒への手紙10:12~13です。

 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。新約聖書283)

 全人類の親である神を慕い求め、そのお方に祈りをささげるもの、そのすべてに主はお応えくださる。それがここに記されている使徒パウロの確信です。問題は罪人である私たちが、「主を求めない」状態になってしまっているということ。

 放蕩息子の帰還(ルカ16:11~)というイエス様が教えてくださったお話がありますが。

 全人類すべてあの、「親を捨てて出て行ってしまった息子」のようなのです。だから、ただひたすらに帰ってくること。このことだけを主はまず私たちに求めておられる。だから、帰ってきたら、走り寄って、私たちを抱き留めてくださって、ボロボロの服ではなくて、父の子であるということが誰の目からも明らかになる衣を着せ、指には父の権威をあらわす指輪をはめてくださり、豚の餌をあさってはだしで走り回っていたものに、履物をはかせてくださって、どこからどうみても裕福な父の子どもであるという状態にまでしてくださる。それが主の御心です。

 だから、とにかく主の御許に帰る。信じる、信頼するというただそのことこそが大事なのです。

 主を呼び求めるものはすべて救われるとローマの信徒への手紙が伝えている通りです。

 

 問題は「私たちが親を忘れて、親を求めていない」ということだったのです。

 だから、信仰、信仰、信仰とプロテスタント教会は口酸っぱく言うのです。

 信頼して帰ることだけで常にすべてが変化していくからです。

 あとは、父ご自身が、変わるための服(豊かさ)や、指輪(権威、力)や履物(解放、自由)を準備してくださるのです。

 

 ユダヤの民はローマ人とくにローマの兵隊を差別していました。ローマ皇帝に魂を売ったものであり、全能の父なる神への信仰などわからないと思っていました。しかし、ローマの百人隊長こそが、悔い改めて神のところに帰ってくるのだということをペトロは経験しました。それが百人隊長のコルネリウスとの出会いでした。祈りの中で、幻の中で、ユダヤ人ペトロとローマ人コルネリウスが出会い、お互いに主に語りかけられて出会っていくという、驚くべき主の業を経験しました。

 

 だから、「神に対して応答しようとしている人に対して」主は行動を起こしてくださるということが証明されたのです。この二人の出来事から、また先ほど呼んだローマの信徒への手紙からもわかりますが、主に対して自分の意思を用いて心から主に向かって叫びをあげていくと、応えられるということがわかってきます。

 

 どんな文化であれ、伝統であれ、国であれ、主はご自分の不思議な力をもって、一人一人に示してくださるのだということをペトロは確信した。だから、このように言います。

 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。使徒言行録10:34、35、新約229)

 このペトロの確信の言葉がとても大切です。

 「神を畏れて」正しいことを行う人です。

 自分の視点で自分が正しいと思うことを行う人は沢山います。

 繰り返します。

 「自分の視点で自分が正しいと思うことを行う人は沢山います。」

 しかし、主を畏れて、主を見上げながら、主に聞きながら正しいことを行おうとする人というのは稀です。そんな稀な人であれば、どんな状況であろうが、どんな伝統、国であれ、主はかかわってくださる、というのがペトロの確信です。

 そして、実際にその人たちのところで「神の業が起こるようにしてくださる」というのです。

 主イエスを信じる人たちのところでは、主イエスが経験なされたことと同じことが経験される。主イエスが、経験されたことというのは。ペトロがこのように説明します。

 つまり、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。イエスは、方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒やされたのです。それは、神が共におられたからです。使徒言行録10:38、新約229)

 「聖霊と力を注がれた」というのは「不思議な神の業」がそこで起こったということの言い換えです。言い換えると、奇跡が起こるということです。で、それをさらに言い換えると「癒し」が起こったということです。

 常にイエス様の周りでは「癒し」が起こるのです。イエス様を信じる使徒の周りでも同じように「癒し」が起こるのです。不思議な神の力が注がれ、その結果「癒やされる」のです。

 「神を畏れて」正しいことを行う人のところで出来事が起こって行く。

 

 その同じことが、いたるところで、イエス様が天に昇られたのちも、弟子たちを通して起こるということです。

 

 聖霊と力、すなわち「神がそこにおられるのだ」という奇跡が起こる。

 

 それは祈りを合わせていくところで起こる。ペトロとコルネリウスの姿を見ていると、ペトロが昼の12時ごろの祈りの時間に屋上で祈っていると食事に関する幻を見ました。12時に食に関する幻を見ました。主は非常にユーモラスな方ですね。ウィットに富んでいます。おなかをすかしているようなときに、四隅をつるされた袋が降りてきて、これまで食べてはいけないとユダヤ教で言われていた食べ物がそこに入っていて、天の父が食べよという。それは、今までローマの兵隊を差別してきたようなことではなくて、新しい地平に立ってものごとを見よという神からの語りかけでした。

 午後3時の祈りの時間にコルネリウスが祈っていると幻を見ます。

 そこで今までありえなかったユダヤ人とローマの兵隊との心通わせる出会いにつながっていく。

 ありえないほど大きな奇跡が起こって行く。

 ペトロにとっても、コルネリウスにとっても大きな癒しの時間となりました。

 私たちを通して神がお働きくださるのだ。

 しかも、神の大きなビジョンの中で、使命が与えられて、自分たちのなすべきことが示される。私たちが見ていなかった、ローマ人、また兵隊。その一人一人を主は視野にしっかりと入れていてくださる。全世界の神ですから、当然と言えば当然なんですが、全然見ていなかったわけですよ。それが大きく目が開かれていく。

 

 どんな人であれ、神は人を分け隔て全然なさらないで、神を求める人を受け入れ、そこで「癒し」の業を起こしてくださることが良くわかったのです。

 

 こんな風に皆が目が開かれていくと、さらに、聖霊なる神のご臨在が満ちてきて、神の賜物である、「聖霊の賜物(カリスマ)」を皆がいただくようになっていきました。このように書かれています。

 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。使徒言行録10:44、45、新約230)

 ユダヤのクリスチャンたちは、聖霊が注がれていくのは、ユダヤの民だけだと思っていたようですね。だから、異邦人に聖霊が下って、賜物(カリスマ)が与えられ奇跡的な神様の業が一人一人に起こっていくということに度肝を抜かれてしまうわけです。聖霊の賜物というのは一体なにかというと、コリントの信徒への手紙Ⅰに書いてあります。 

 恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。(コリントの信徒への手紙Ⅰ12:4~7、新約309)

 全体の益になるために、神様がご臨在され、神の霊が内側に住んで、「すべての人の中に働いて」と書いてありますから、神のスピリットが内側に与えられ、特別な力が与えられる。それは全体の益となるために与えられるギフト。さらに具体的にはこう記されています。

 ある人には、霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて知識の言葉が与えられ、ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、これらすべてのことは、同じ一つの霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。(コリントの信徒への手紙Ⅰ12:8~11、新約310)

 それぞれに奇跡的な神様からいただく特別なカリスマ(賜物)が与えられる。それは主の霊がご臨在されるしるしである。しかも、それは共同体全体の益となっていくもの。ということは、まさに人を生かし、励ます力となり命となるものとなるということですね。

 

 「あぁ。神様って本当におられるのですね。神様の御業に感謝いたします。主のお力を感じます。主が私を癒やしてくださるのを感謝します。」というような言葉が飛び交っていくということが、初代の教会において起こっていたことであることがわかります。

 

 神を本当に畏れる人のところでは同じことが、時代を超えて今でも起こります。

 

 ヘブライ人への手紙13:8にこのように記されています。

 イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。ヘブライ人への手紙13:8、新約409)

 キリストは変わらないし、キリストを主と仰いでいる教会に与えられる賜物も2000年前と変わっていません。

 

 話は非常にはじめからシンプルです。ペトロとコルネリウスのように、本当に主を「畏れて」いるのかということです。他のものを恐れて、ほかの何かに心がつながっていたら、そこから主の御業、奇跡は起こりませんし、カリスマも失われるでしょう。

 力の源である主イエスにつながり、主の血潮で清められ、内側が主の霊で満ちていくものたちが起こされ、この時代全体を改革していく。一人が復活する。

 

 癒しと復活が日本中の教会から起こされますように。アーメン。