2023年7月16日 主日礼拝説教 使徒言行録8:14~25「金で手に入らないもの」石井和典

 教会は、境界線を超えて行きます。壁を打ち崩すことができる。上から示される神の啓示、メッセージに従うと必ずそのようになります。人と人を結び付け、理解し合い、受け入れあい、自分たちの偏狭な世界を飛び越えていきます。クリスチャンの初めの教会は、実はユダヤ人にしか伝道を考えていませんでした。しかし、その壁を超えて行きます。

 

 今日出てくるサマリアの人というのは、ユダヤの正統的な人々からすると差別と侮蔑の対象になっていた地域でありました。というのも、サマリアというのはイスラエルが南北に分かれたときの北に分類される地域ですが。この北イスラエルの王は皆、全能の父なる神ではなくて、別の神をあがめるようになっていったからです。多神教的な伝統を持ち込んだ王ばかりがいた。だからユダヤの民にはこの民は邪道であり、混血が進み、非常に不信仰な人々だと考える人が多かったのです。しかし、主の霊、イエス様の霊に導かれる人たちはここに入って行きます。

 

 サマリアの人々に対して、フィリポが洗礼を授けたときには、信徒一人一人には聖霊が注がれていなかったようです。なぜこんなことが起こるのかの説明ははっきりとはなされていません。

 

 聖霊という言葉ははじめての方もおられると思いますが、非常に難しい言葉です。まず「霊」というのが難しい。霊というのは英語ではゴーストとかスピリットと翻訳されます。ゴーストとスピリットって、いうなれば、超自然的な霊的な目に見えない存在ということですね。

 人間には神から与えられたそういう一面がある。霊的な世界と肉的な世界と両方に足を踏み入れている存在。それが人間。それで、霊はそういう曖昧なことばであり、概念であるので非常に難しいのだと思います。

 

 精神というのはこの見えないところと、肉体との橋渡し役になっていて、病みやすい。非常に繊細で素晴らしいものでもあるのですが、それゆえ奥深くもあり、混乱させられるととことんまで混乱し病み、その病が伝染病のように人々に広まっていってしまいます。

 この精神こそが人間の奥深さとすばらしさを生み出しているところでもあり、問題でもあります。その背後にある霊的な目に見えない世界の事柄というのは、神様と向き合うことによって正されていくわけです。

 

 とりわけ、主の霊の満たしというもの、聖霊バプテスマを受けると、秩序が回復されていきます。主の心に満たされて、満たされ尽くすと秩序が回復されていくということがおこります。その結果その存在全体から癒しがにじみ出来るようになり、病の癒しもおこりますし、その人を通じて人々の心が癒されますし、慰めが与えられますし、休息があたえられますし、命が噴き出してくるというような状態に至るのです。

 

 洗礼を受けるというところまで行きますと、心の内側にすでに聖霊があるということが証明されるのです。それは聖書にこのように記されていることからわかります。

 そこで、あなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も「イエスは呪われよ」とは言わず、また、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。(コリントの信徒への手紙Ⅰ12:3、新約309)

 

 洗礼を受けたのに、聖霊の満たしまでいっていない状態。それがフィリポがサマリアで人々に洗礼を授けたあとの状態であったようです。

 なぜそんな状態になったのかという理由についてはよくわからないのですが。状況は一人一人、場合場合、全然違います。

 しかし、エルサレムの教会とサマリアの教会との協力関係をこの出来事を通して主が起こそうとされているのではないかというようなことはなんとなく想像がつきます。

 

 それから、使徒たちが手を置くということが非常に重要であったのだということも見て取れます。使徒たちが手を置くと聖霊が注がれたということが記されているのでそれがカギでしょう。

 

 私たちは使徒信条によって教会を形作っていますが、使徒たちの伝承というのは決定的に重要な内容です。教会の基礎である使徒たちの伝統の上にたつために、そこに使徒たちを主がお招きくださったのだともいうことができると思います。

 しかし、これこそが、主の御心でありました。この「協力関係によって出来事が起こって行く」のだということが。

 

 助けてくださいと祈り、その祈りに主がお答えくださって助け手が与えられるということが、聖書を読んでいてわかってきますが、基本的にいろんな場面において起こり続けることであります。私たちの生活もそのようになっているのがよくわかります。助けを求める歩み。生まれてからずっとそうです。

 いろんな場面で私たちは「助けてください」と叫ばざるを得ない状況に導かれるようになってます。自分一人ではどうにもできないところに追い詰められます。そして、だれかからの一言で救われるということが、そこかしこで起こっています。

 だから、助け合う、仕え合う、協力関係を築くためにいまこの出来事があるのだとも言えると思います。

 

 早天礼拝で使徒言行録の本日朗読された箇所のすこし先を読んでいます。

 使徒言行録の10:1~のところですが。ここには、「コルネリウス体験」とも呼ぶべき使徒ペトロの回心の出来事が記されています。使徒ペトロとローマの百人隊長のコルネリウスの話が記されています。彼らは「祈りをささげているとき」に神からの幻をいただきました。祈りをささげているときに幻です。シンプルなのですが、非常に重要なポイントです。

 幻というのは英語にするとvisionです。visionというのはまた視野という意味でもあります。祈りの中でお互い新しい視座に導かれていった。しかもそれは、神が見せてくださる青写真、神の伝道の計画、神の異邦人を受け入れて福音を伝え全世界に対する宣教が行われていくということを実現する視野に基づいた内容でもありました。

 

 使徒言行録の一番はじめにはこのように記されてもいます。

 エスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」使徒言行録1:7、8、新約 209)

 地の果てまで主が弟子たちを証人として遣わせるという内容ですが。これが実現していっているのが、使徒言行録の記述です。証人というのは、すぐちかくに神がおられる。インマヌエルなる主イエスをその身体をもって証明するということです。それが伝道です。

 その言葉の実現として、フィリポがサマリアに行って福音を伝えていくことができるわけです。サマリアというのはユダヤの中心的な人たちからすると蔑みの対象の場所となってしまっていた場所でした。

 混血が進み、ユダヤの純粋性が阻害されているところと彼らはとらえていました。しかし、そこにこそ福音が伝わっていくのです。イエス様はまさにそういう人たちのところに行きましたでしょう。弟子たちもイエス様と同じようにするのです。主がすぐ近くにおられると実感するからです。

 

 さらに驚くべきことに先週確認しましたが、迫害が広まることによって教会が破壊されて、サウロによって人々が家から引きつりだされて集会が解散させられてしまっているというそのさなかに世界宣教の視野が開かれていくということがおこります。

 ですから、試練がそこにあるということを通してミッション(使命)に対して人々がさらに目が開かれて実際に行動が起こされていくということがおこるのでした。

 

 そのありさまを聖書ではこのように表現しています。先週読んだ箇所ですが。

 しかし、フィリポが神の国イエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。使徒言行録8:12、新約223)

 神の国というのは神の支配のことです。神の支配というのは、神の王国ということですが。神の力がそこにあるということを信仰の目をもって見るということです。また、主イエスの名が勝利して、人々が神の側に勝ち取られて信仰が復興してきて、人々の間に恵みが満ちてくるということがおこります。それが福音です。十字架の血によって民が完全に清められて神の国、神の支配の中に入れられていくとということが次々とイエス様を通しておこるということですね。

 イエス様のご愛を徹底的に味わいつくす民がおこってくるということです。

 

 聖霊の満たしを受けて、徹底的に愛に満たされて、人を愛する力が内側から湧いてくるということがおこらないといけないのです。それが神の国の広がりということができます。そのポイントをいつも目指していると言うことができます。

 金曜日にも幼稚園の先生方とノーマルクラスというキリスト教幼稚園の学び会で七尾教会の釜土先生がお話してくださっていました。先生が強調されていたのは「愛されていることを知り 愛する者となるために」ということでした。

 愛で満ち満ちているということを知らないといけないのです。それを知るために子どもたちは皆確認行動として、「試し行動」を取っているのだと。愛情を確認するために、自分が受け入れられていることを確認するために、はたから見たら問題行動のように見えることも行うのだと。

 大人だって同じだと。

 大人も同じでしょう。自分が能力があるとすごく吹聴する人がいますが、それは「私が愛される価値がありますよね」ってアピールですよね。美しいことを自慢したがりますが、それは「私が愛される価値がありますよね」という問いかけですよね。

 もう人間の行動なんてみんなこんな感じですよね。

 私が愛されているか。それを確認している。それを毎時間、毎瞬間、確認して満たされていかないといけない存在。それが人間だって。私は、釜土先生の講演を聞いていて「アーメン!」と叫びたくなりましたよ。心当たりしかない。

 

 愛は愛されていることに気づいて、応答して満たされていくということを経験しなければならない。

 神の霊が満ちてくるというのも、愛されていることに気づいて自分から神を求めていくときに聖霊の満たしが起こります。だから、これは愛の関係性なのです。聖霊とは。

 

 金でこの聖霊の賜物を買おうとする魔術師シモンに対してペトロは非常に厳しい言葉で応えます。

 お前はこれに関わることも、あずかることもできない。心が神の前に正しくないからだ。使徒言行録8:21、新約224)

 聖霊というのは神様のご愛です。私たちの内側にも注がれてくる心です。それによって奇跡も起こりますし、癒しもおこり、あらゆるものが神の力によって動員されていくということを感じるような力となります。

 心には心で応えないと。心が注がれてくるのだから、私たち人間も心を注ぎ続くして応答しなければならない。

 主は徹底的に親として、必要なものをすでに備えて備えつくしてくださっているので、安心して、祈りの中に入っていって、信頼をささげ、祈りの中で、癒しを受け取ったら良いのです。

 その癒しの根拠は常にイエス・キリストにあり、私たちは常に心を主イエスに向けていくのであれば、そこには満たしがある。しかも、その満たしというのは伝道者として出て行ってしまうような、非常に大きな力として迫ってくるものでもあります。

 

 この力は半端なものではありません。世界中に出ていった宣教師の先生方のお姿とか、伝道者の姿をみていただければわかるのですが、何があっても彼らは困難を乗り越えていきます。内側に主に対する信頼感、信仰があってそこから無尽蔵の力が与えられていたということがわかります。

 

 神の霊の満たしを私たちは受けることができます。

 それは主イエスとの出会いの中で与えられます。主イエスのお姿が心の中で見えるようになりますと、内側に永久機関のような「常に愛の力を発するもの」ができあがります。 

 その場所ができると、いつ何時何があっても、迫害があっても乗り越えることができる力がつねに与えられ続けます。

 毎時間、毎瞬間癒しを受け取ることができます。

 こんな喜ばしく、楽しい道は他にありません。アーメン。