2023年9月24日 主日礼拝説教 使徒言行録11:1~18 「福音の本質と非本質」石井和典牧師

 ユダヤ人ペトロとローマの100人隊長コルネリウス

 全く違う文化から生まれてきた二人です。

 ユダヤ人は特に積極的にローマの兵隊と私的に付き合うということはなかった。

 しかし、この二人の間に暖かい信仰による導きが与えられていきます。祈りの中で主が幻を与えてくださって、二人が出会うようにしてくださいました。信仰生活というのは、このような暖かさと出会うということでもあります。

 神様が与えてくださる出会いに暖かさがある。言い換えると、祈りの中での出会いに暖かさがある。祈っている相手との出会い。祈ってくださっている方々との出会いには暖かさがあります。

 

 この出会いによって、教会が大きく開かれます。ユダヤ世界の中に閉じこもっているのではなく、ローマ全体に大きく羽ばたいていきます。主イエスのお言葉が全世界において実現していくことになりました。

 主イエスのお言葉というのは以下のような言葉です。

 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。使徒言行録1:8、新約 209)

 エルサレムからスタートして、イスラエル全体に伝わって、そのあとは「地の果てに」という視野。

 

 これを実現していくのが、パウロです。パウロさんはローマに行くという主からいただいた視点を実現し、ローマで殉教したと言われています。

 地の果てまでいくということ。これを使徒たちは私たちに見せてくれて、それゆえ、私たちが現代においても「地の果て」を見る。そこにまで福音は確実に伝わるのだということを信じることができます。

 地の果てに入って行くためには、イスラエルという壁、ユダヤという文化を超えなければいけません。この壁を超えていくことは容易なことではありません。

 どうしても、人間はこれまでの生活を守りますし、自分たちの先入観から抜け出すことは難しいものです。だからこそ、神の介入がなければ実現しない。

 

 困難なことがあるときに、課題があるときに、使命があるときに、なすべきこと。

 それが本日の箇所から見えてきます。

 

 それはシンプルに「祈り」です。

 もうこれは、創世記のはじめのはじめの段階から変わらないことです。人間がなすべきことの第一は、「主に聞く」ということ。「祈り」です。

 主を第一に本当にして、自分の思いを捨てるために主の御許にいくことです。

 人類の最初の殺人というのは、アベルとカインとの間で起こってしまいましたが、アベルが神様を第一としているその傍らで、カインは自分が神に受け入れられていないのではないかと思い込みました。主との対話に入っていくのではなく、自分の怒りに支配されてアベルを殺してしまいました。神はカインを捨てたわけでは全くなかった。しかし、彼の怒りが暴走してもうなにも見えなくなった。

 

 主に聞くということを常に優先すべきでした。徹底的に主に対して申し立てをし、祈ったり、納得いかないところがあったら、主との交わりの中に入っていけば良かった。

 しかし、カインは交わりを拒否しました。対話を拒否しました。祈らなかった。

 アブラハムも、「祈りに入って行ったとき」に主の業を行いました。力を与えられ英雄のように活躍するときは、「主に聞いていたとき」です。恐れにとらわれて自分の算段に走ったときは、どうなったかというと、自分を守るために、妻を盾にしました。大切な人を犠牲にしました。すごく恥ずかしいことですが、その出来事の後アブラハムは悔い改めて、後に英雄的な勝利を手にすることになります。

 

 祈り祈り祈り、主との交わり。主との関係。これが神の民の命。命の中の命。

 

 罪、罪、罪と教会に来ると聞くようになりますが。罪とは何か。

 罪とは関係概念です。神との関係が崩れていることです。神との関係が崩れていると他の関係も崩れます。

 それゆえ、神のもとに帰ることを許された神の民は、等しく皆、神との交わりである祈りに帰っていく。それは必然的な帰結です。罪から回復して、関係が壊れていたところから回復して、会話ができるようになって、会話が復活すると内実ともに神の民となるわけです。

 ちょうど喧嘩していた家族がもとにもどって回復していくようなものです。

 関係が壊れていると会話がなくなります。

 

 だから、主から語りかけを受けてはじめて大きな一歩を前に踏み出していく。これが神の民。

 神関係が回復すると、他の関係も回復されます。平和を作り出すものとなっていく。

 だから祈りが回復されているかどうかということがすべて。なんでも主に聞くか、聞かないかです。

 

 ペトロがヤッファの皮なめし職人シモンの家の屋上で12時に幻をみます。おなかをすかせていたのでしょうか。祈るために屋上に一人行くと、幻を与えられる。四隅をつるされた布が天から降りてきて、これまでは食べてはいけないと言われていた食べ物が入っていた。神が清めたものを清くないとは言ってはいけないと主がお語りくださった。だから、異邦人でも、清めをうけて主のもとに迎え入れられる人が起こされていくのだということがペトロに示されていたわけです。

 

 神との対話の中に入り、はじめて一歩前に進む。主が与えたもうた使命(ミッション)に走り出していくことで、全世界のあるじである方の御業に参与していくことになります。

 それまでは、徹底的に準備の時間を過ごしていくことになります。

 

 ペトロさんの準備は大変な準備でした。

 主イエスを徹底的に裏切ってしまっていたのだということを何度も示されていく。

 自分が裏切り者だとしめされる、、、これによって回心してくのですが。これも準備です。

 だから、復活のイエス様に出会って、三度私の羊を飼いなさいと言われました(ヨハネによる福音書21:15~17、新約207)。これはどう考えても、当てつけです。強烈ですよね。三度知らないと言って裏切ったあのペトロさんの行為を思い起こさせる内容です。

 

 しっかり悔い改めることができるように、回復の道を準備した上で、気づくようにしてくださっていたのです。

 

 だから私もそうですが、いろんな人の姿を見ていてわかるんですが、皆何度も同じところでひっかかりつまづきを繰り返します。その問題で自分自身が悔い改めないと何十年も変わらずにそのままということになる。

 自分の失敗を悔い改めるというプロセスを通して、本質的に大切なこと、そうではないことを選び取ることができるようにさせられます。

 

 本当に大切なことは、自分の信仰深さを人に示すことではなくて、主に導かれて、主に示されて、主によって大切なことが見えるようになり、大切な人を大切にし、イエス様が与えてくださるその恵みに徹底的に目を開いていくということです。

 

 主イエスの恵みは、異邦人に向かって広がって行こうとしていました。

 

 ユダヤ人は異邦人の家に入って食事はしてはいけないということになっていた。というのも、異邦人というのは、食事規定を守っていないから。異邦人の台所は汚れたものが一杯乗っていると考えられていた。異邦人の家で食事をしてはいけないというのは、汚れた台所で準備された食事を食べてはいけないということです。

 食事規定を守るために、場所を区別するということをユダヤの人々は徹底します。イスラエル旅行をすればわかりますが、ミルクと肉が同じテーブル、同じキッチンで料理されることはありません。だから、朝コーヒーがでると必ずミルクがセットになりますが、そこには肉料理が出されることはありません。それは旧約の律法で定められているからです。

 しかし、異邦人というのはどうですか。私なんか肉を食べながらコーヒー、ミルクなんてあたりまえなんです。〇〇ハンバーガーを食べながらミルクの入ったコーヒー。イスラエルに行くと、ハンバーガーが売っているカウンターから少し離れたところに隔離されてカフェバーがある。

 ユダヤの民にとってみれば、異邦人はなんという汚れたものを食べるのかという感覚。汚れたようにうつるのです。

 イメージとしては、ミルクは母性と命を象徴し、肉は死と犠牲とを想像させるようです。

 そういうものをごちゃまぜにしてはいけないということです。

 だから、異邦人の家に入って食事をしてはいけないということになっていた。

 

 しかし、神様が聖霊をローマの兵隊に注いでくださる。これが十字架の後に起こること。

 これこそが非常に重要なこと。ユダヤの民の常識からすれば、神の霊が注がれていくのは、清められた、清い生活をしている神の民にだけということです。

 しかし、この大伝道時代の幕開けの後、すべての民に主の霊が注がれるということが起こりうる。その民が神の民とさせられているのだということが明らかになる。だから、聖霊が注がれるということが起こって清めが起こって行くという、聖霊論の時代になったということです。聖霊が先ということが起こりえるのです。

 

 主の霊が注がれてくるということ。はじめての方にはわかりにくいかもしれません。一番わかりやすいのが、聖霊が注がれた賜物として発露してくる信仰の賜物です。主イエスを主と告白し、心の中が熱くされて、エネルギーが満ちてくる、喜びが満ちてくる。それが異邦人において起こるのです。

 私たちにおいても伝道が進むということはどういうことなのかというと、神の霊が注がれて、その人の内側に聖霊による感動が与えられて導かれるということです。

 私などは、イエスさまに惚れてしまい、もうこのお方についていくしかないという確信が与えられました。今思うとそれははじめから与えられて、全く変わりません。

 これは私の信念の強さというものではなくて、聖霊の賜物です。自分の弱さというものを痛感する日々ではありますが。主イエスに惚れ、主イエスに従い、主イエスのおっしゃられることを体現したい。この志ははじめから全く変化なし。それが日々またこの欠けの多い私の中で成長させられる。

 

 祈りに傾斜すればするほどに、その成長の速度は加速します。何しろ、自分が変化しているのを感じざるを得ない。祈りの力によって。

 

 主イエスは、私たちの内側で命の業を起こしてくださる。成長の業を起こしてくださる。成長のためには暖かさが味合われていかないといけない。そのために励まし合う仲間が現れる。ペトロとコルネリウスです。逆にそれに水を差そうとする勢力もあらわれますが、そんなものもろともしない。それが本質に生きるものたちです。

 

 主が御業を進めていこうとされている。驚くべき命の業が起こされている。ローマの100人隊長の家庭でも、その周辺でも聖霊の賜物が。

 つまり人々がよみがえり復活していっている。目が輝いてきて、そこら中に神の御業を発見するようになっていっている。その結果、その人たちが主体となって神の御業が行われていくという空気感が満ちている。「えー!、あの異邦人たちが!?」という世界です。

 

 主イエスの御名のもとに集まる幸い。本質を見出した人々の幸い。非本質に目が奪われてしまっている人たちは、ペトロとコルネリウスを批判しました。しかし、この二人の間にかわされた神の言葉、神の御業への驚きは、後の世代の教会の明暗を決する大きな出来事でした。

 

 主の霊の導きによってどんな人も清められる。

 この人は違うというようなことは人間の先入観にすぎない。そういったことを飛び越えて、十字架の血潮によって清められていくものたちの間で、聖霊の息吹きが与えられる。

 聖霊の息吹きが与えられると、その人たちには賜物が満ちる。聖霊の賜物については第一コリント12章をご参照ください。賜物が与えられるとお互いに生かしあう、励まし合うという空気が生まれていく。そうして、不思議な神の御業における一致が形成されていく。励まし合う、生かしあうとならないのは、聖霊の満たしを受けていないからということです。聖霊の満たしをうけると必ずそういう命を倍加させていくような方向に傾きます。

 

 本質は、私たちの主イエス・キリストです。そのお方の心を思っていると、不思議と私たちと心を一つにしてくださる方々が、この地域から起こされてくる。

 聖霊の御業が起こる。私たちの思いを超え、壁を乗り越えることが起こる。

 主イエスの十字架と死、復活を覚え、ご自分の人生が復活し、新しい思いによって燃えはじめるものがあらわれてくる。

 

 主が願われたときに起こるはずです。主は私たちにその御手を伸ばしてくださったから。

 「地の果て」という視野の中にこの日本を、また石川を金沢を入れてくださった。

 だから、カナダから宣教師がこの地で大活躍したのでしょう。そして今があるのです。

 

 神の心が注がれ目が開かれていく神の民がいる。

 コルネリウスのように、その家族のように、その部下たちのように。

 その人たちと会うと、私たちの心も癒やされる。

 あぁ、まことにここに神の業があったのですねと。

 癒し、癒し、癒しです。癒しが満ちる共同体が教会です。アーメン。