聖書って我々の目を開いてくれます。
本日の個所を見ても目が開かれます。
「迫害が伝道のための起爆剤となっている」ということが記されています。
マイナスの出来事が成長の機会になっているということがわかります。
主イエスの御許に帰るということは、回復の、癒しの力の源に帰るということです。どれだけマイナスなことが起こっても、そこから回復という方向性が与えられるのです。
ステファノという初代の弟子が石打にされて殺されてしまいました。ステファノは石打にされるような罪は犯してはいません。無実の罪で殺されてしまいました。初代の教会にとって最低最悪の出来事が起こってしまいました。
キリストの教会のリーダーが殺される。そうしたら委縮してしまって、伝道はいまのところ危険だからやめておきましょう、、、的な発想になるか。。。と言えば。
そうでは全くなかったのです。ますます広がっていきました。
伝道にとってネガティブな出来事じゃないかと思えるようなことが起こるたびに教会は力を受けて進んでいきました。
というのも、キリストの福音というのは、十字架の知らせというのは、なんども申し上げますが、そもそも癒しだからです。
十字架の主と向き合うと癒やされるのです。
主イエスを本当に受け入れて行くところでは、復活の力が発揮されて行くからです。
イエス様がおられるところ、新約聖書全体を見ていてわかりますが、何が起こりましたか?
癒し、癒し、癒し。回復、回復、回復です。
キリストの福音を聞いて受け取ったものたちのところで、同じことが起こります。
だから、状況に全く左右されません。はじめからそうでした。
状況に恐れをなしている人々というのは、福音がなんなのかわかっていないし、体験もしていないということです。
福音は、状況が危ういときにそこから力を発揮するのです。
ダメになりそうな時に勢いを増して広がっていくのがキリストの福音です。
使徒言行録を見ていてわかってくるのですが、困っているときにこそ働いてくださるのを具体的に見ることができます。使徒言行録12:6以下を少し開いていただけますか。ペトロは牢に入れられてしまいますが。「牢にいれられた時にこそ」天使たちの姿を見るのです。天使がペトロの脇腹をつついて起こして、「急いで起き上がりなさい。」と言うのです。
絶対絶命の時。主の助けが鮮明に見えるようになります。
ステファノが殺害されて、指導者が殺されて、その共同体はこれからどうなるんだという時。どんどん人々が信じるようになっていきます。しかも、回心していった人たちの数は少数ではなくて、多かったと記されています。
主の御手が共にあったので、信じて主に立ち帰る者の数は多かった。(使徒言行録11:21、新約231)
教会ってすごい場所です。
諦めない人たちの集いです。なぜ諦めないのかというと、「主がおられる」ことを見る人たちだからです。一般的に、殺人が起こったら、、、そこから逃げてもうこの共同体とはかかわりありませんって言う方が妥当な判断かと思います。しかし、信じる人たちはそういうことはしない。
というのは、そこに主がおられるのが見えているから。で、実際に信じる人たちのところでは、その信じたとおりにものごとが起こるという状況が展開されていきます。
だから、ペトロとコルネリウスのところでもご一緒に見ましたが、祈りに時間を割いて、その目が主に向かって開かれている。そういう状態がつくられることがいかに重要なのかがわかってきます。
信じている人がいれば、それで勝利だとも言えます。
信じた人が信じた通りのことが起こって行くからです。イエス様がこのようにおっしゃられた通りです。
よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。(マルコによる福音書11:23、新約83)
主の心がここにありと信じて、その通りになると信じられることは、信じるその一人の人を通して実現していくのです。主の御心だって確信するところまでいかなくてはいけません。しかし、主の御心だって信じて確信できることならば、その通りになるのです。
本当に信じ切るためには、これは主が語りたもうたという確信がなければなりません。
なぜこんな迫害の中で増えたのかという理由が今日の聖書の中に書かれています。
主の御手が共にあったので、信じて主に立ち帰る者の数は多かった。(使徒言行録11:21、新約231)
彼らは主の心を見て、主のご好意を受け入れ、主の行動を見、祈りをささげつづけていたので、「主の御手が共にあった」と表現することができた。主に向かって生きていたのがわかります。
だから、同じように倣って信じて立ち帰るものたちが多かったのです。
この聖書の表現ってすごいです。「主の御手が共にあった」。意識の中心に敵の力強さを置いていたのではありません。意識の中心に恐怖を置いていたのではありません。意識の中心に不安感を置いていたのではありません。
不利な状況を中心に考えていたのでもありません。
危機的な状況は主の御業があらわれるためのお膳立てです。
彼らは危機的な状況に「主の御手が共にあった」と信仰によって見たのです。するとその通りになりました。信仰がさらに起こされていきました。
こういった共同体には素晴らしい信仰に生きる者が沢山あらわれてきます。
バルナバという人がいましたが、この人はパウロがエルサレム教会に迎え入れらえられる時に、パウロの信仰の歩みをエルサレム教会に証した人です。パウロはクリスチャンを引きづりだして処刑していたファリサイ派の人だったわけですから、教会が受け入れることなどできませんでした。しかし、このバルナバが、主に触れられ、導かれたパウロのことをエルサレム教会が受け入れることができるように弁明したのです。確かにパウロはキリストと出会って、自分の誤りを指摘されて回心してクリスチャンとして歩んでいると。
このバルナバさんが、アンティオキア教会に遣わされ、このアンティオキア教会を治め、またパウロをこの教会に紹介し、そこで偉大なる成長をとげていくのです。
社会的に非常に目立つ存在になって、この時期に周りの人たちは教会の人を「キリスト者」と呼ぶようになりました。
強烈な成長を遂げると目立ちますね。社会的に力をもっていっているので皆があだ名で呼び始めたということですね。
この活動の立役者はバルナバです。「慰める者」という意味ですが。純粋に慰めにつねに立っていたのです。だから、彼を通して実りが実現していった。慰めというのは何かというと、主イエスです。主イエスに人々が結びついていくと慰めを受けます。
慰めを受け取っているひとは、その存在自体が誰かの慰めとなります。バルナバさんはそのとおり、多くの人の慰めとなっていたので、人々が彼を通して信じるところまで導かれます。そのバルナバのことが以下のように表現されています。
バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。(使徒言行録11:24、新約231)
立派な人と記されていますが、どう立派なのかというと「聖霊に満ちていた」から立派だったというのです。聖書の価値観というのはこういうものです。「聖霊に満ちている」から立派なのです。何ができるできないでは全くありません。
聖霊というのはイエスの心と言い換えることができます。主イエスの思いに満ちていたから、そのとおりイエス様のように行動することができたのです。
さらに、信仰に満ちていたというのですから、天の父のお働きは目には見えませんが、彼はその天の父のお働きを見ていたということです。主イエスの思いに満ちて、天の父の御業を見ようとしている人。このことがとっても大切なんだなとわかります。
そのためには、自分がいかに愛されているのかということを十分に味わっていなければなりません。彼は十分に味わっていたのです。だから、立派だった。
まずは、主イエスのこころを十分に味わったら良い。自分がいかに愛されているのか。自分が神様にとってどんなものなのか。そのことを徹底的に味わいつくしたらよい。そこから力が与えられるのです。その力がなければどうにもならない。放蕩息子がいかに父に対して不義理をしていたのか気づいて、そこで涙して悔い改めて、徹底的に癒され尽くしてそこから仕えるのです。
そうじゃないと、すぐ「イイ人アピール」「すごいだろアピール」「善人アピール」がどうしてもはじまってしまいますね。もういやというほどそういうのを自分の中に人の中に見てきました。そうすると、「慰める者」ではなくて、自分の奉仕をアピってしまう人になります。
そうではなくて、人にはもう認めてもらうほどのこともなく、心の内側から主に受け止めていただいたという喜びがあふれ出してきてしまうような、豊かさが口から出てきてしまっているような。そういう状態。バルナバって確かにそういう人ですね。
みんなパウロに近づかなかったのに近づくことができた。
パウロに働かれた主の御業を彼は「主からのご愛をいただいたもの」と理解できた。それはバルナバ自身が主から愛を受け取っていたからです。だから、パウロに起こったこと読み取って、その重要な主の御業にフォーカスしていけたのです。
主の御業に心が向いている人は、主イエスのご性格のすばらしさを証しする出来事に目を向けて、そういうことが起こっていることにつぎつぎと目を開いていきます。
だから、その人の口から出てくる言葉も「恵み恵み恵み」ということになります。
しかし、そうではなくて、別のものを見ていたりすると、単なる自分アピールを延々としていたり、不安感を煽ったり、誰かを追い詰めたり。イエス様の敵であったファリサイ派とか律法学者とか見ていると、あぁ、主を見ていない人ってこういうことなんだなってわかってきます。
自己正当化するために誰かを悪者にする。
バルナバには確かに豊かさがあります。豊かさが口から恵みがこぼれ出てくるような、そんな歩みが形成されていきます。
それゆえに、人々はその歩みにともについていきたいと思うのです。
十字架の主の力というのは恐ろしいですね。こんな大変な迫害の時代に、その恐怖に飲み込まれてしまうのではなくて、主が与えたもうた恵みに目が開く。
それゆえに、自分自身が誰かの慰めとなって誰かを満たすことに走る。
満たされ尽くしていないと、不安感で押しつぶされてしまいます。
しかし、弟子たちからは恵みがこぼれでていきました。
宣教のキーマンとなるパウロさんを宣教の拠点になるアンティオキアにバルナバは呼び寄せるのです。このことがパウロの宣教活動の土台となっていきます。土台をつくる人がバルナバでした。
パウロが立ち上がることは、のちの2千年の教会を左右する出来事です。
この瞬間というのはあまり注目はされないのですが、このバルナバさんの存在こそ、決定的に重要であったことがわかります。
主イエスからいただける心を目いっぱい受け止めて、その通り、満たされてその満たされたものを手渡していくと、それは神の歴史の中に名を残していく偉大な働きへとつながっていく。これは間違いない。聖書の約束です。
本当に教会ってすごいところです。後の時代を決することが実は展開されている。
そこで問われていることは、至ってシンプル。
「聖霊で満ちているか」です。
「主イエスのこころで満ちているか」です。
「主イエスのこころにふれて徹底的に癒され尽くしているか」です。
皆さんの心は自由です。バルナバのようになるのか。迫害者のようになるのか。皆さんが何を見、見続けるかで決まる。十字架の主イエスと向き合い、癒やされるのか。
それとも、自我の中に溺れ、何かのはけ口に人を迫害し、攻撃するのか。
もちろん、皆様は主イエスの心に満たされ、神の歴史に名を連ねなければなりません。
心は主の心で満ちていますか。他の何かがあるのであれば、主イエスをふたたび見上げ、癒しをうけとってください。アーメン。