2022年12月25日 クリスマス主日礼拝説教   マタイによる福音書2:1~11 「汚れ切った私たちへのしるし」 石井和典

 真っ暗な闇の中にキリストは現れてくださいます。

 キリストがお越しくださったのは、「保身のために幼子を皆殺しにしなければならない王」の時代です。ヘロデ王の時代というのはそういう文脈です。

 彼は自分の息子も殺しました。妻も殺しました。自分の母親さえも殺しました。

 人間というのは恐ろしいものです。その内側に何を宿すかということは、完全に本人の自由です。彼が、敵に対する敵愾心を心に満たすことを誰も止めることはできませんでした。幼子を皆殺しにするというおろかな行動も誰も止めることができませんでした。聖書を受け継いでいた王ですよ。十戒を守っていた民です。律法を厳格に守り生活を形作っていた民です。その民の中身は崩壊してしまっていたことがわかります。

 いつも、そうです。本当に重要な情報は受け継がれているのに、人間が壊れている。

 

 何を内側に宿しているかなのです。

 

 暴走し、完全にだれもコントロールできないような状態になってしまった世に、主イエスがお越しくださったのだということを知ることが大切です。

 この世界を見捨てられたのではないのだということです。

 

 神に見捨てられてしまってもやむを得ないような汚れだらけ。

 小さな幼子の命を握りつぶさなければならない世界。そんな世界はない方がマシ。

 しかし、この世界を育まれて創造された主は、子どもである世界を決してお捨てにはならないのです。創世記の初めに「神の霊が水の面を動いていた(創世記1:2、旧約1)」という言葉があります。

 この言葉は決定的に重要な言葉です。

 この「動いていた(メラヘフェット)」という言葉は、鷲が雛鳥の上を飛び駆けている様を描く言葉です。親鳥が子育てしている様子です。

 だから、世界の一番はじめから「親が子どもを育てる」ということが中心にあります。

 世界のすべての始まりであり、神様の私たちに対する姿勢であられるのです。

 

 私たちを守り育てられるということ。そのために、大切に命を一人一人守ることをお考えくださっているのであって、滅ぼすことが第一にあるのではないということです。

 神の霊が私たち人類の上を飛びかけつづけている。そのことに気づく民は、その神の霊にあずかることができるということなのです。

 そのことに気づいた民が、自らの内に命を宿し、命を宿す民は、その行動から存在そのものに至るまで、命を生み出す主体となるということです。

 

 そんな秘密のワードが、創世記の一番最初に秘められているのです。

 

 その思いを知り、受け止め、生きることがユダヤの民にはできるはずでした。

 その言葉、材料のすべてが十全に与えられているのがユダヤの民。

 

 しかし、ヘロデの頭、心の中心にあるのは、主のご愛ではなくて、保身。親鳥を意識するのではなく、必死に自分の力で敵を蹴散らすことでした。

 ローマ帝国の中枢に取り入って、ローマの傀儡としての自分の立場を確立しましたので、彼はなんとか自分の王位を追われないように。そのための行動に走りつづけます。

 これが、彼のすべて。。。

 だから、神をあがめることもせず、預言が与えられて、まことの王が現れるという知らせを聞けば、それは「私の王位が危うくなる」情報として受け取ってしまった。そんな風に受け止める必要はなかったのです。しかし、彼は自分の保身を中心に見ていたので情報が書き換えられたのです。

 だから主イエスを殺そうとしたのです。

 

 いつものジレンマです。本当は聞かなければならない人が、聞くべき内容を曲解して聞いている。

 イザヤ書に記されているメシア預言はイザヤ書7章に記されています。この箇所はインマヌエル預言と言われています。この旧約の時はどんな時代だったでしょうか。

 アハズという王が南ユダを治めている時代です。北イスラエルとアラムが結託して、南を滅ぼそうとしているのではないかという気運が高まってしまっていた時でした。そこで主は南ユダを守るために、インマヌエル預言を与えられたのでした。

 しかし、アハズ王は神様が語りかけてくださっても、神様がおっしゃるようには聞かなかった。

 アハズ王は後の人々からは悪い王と称されるようになってしまいます。それはなぜか。主が御手を差し伸べてくださり、メシアを与える。その言葉を無視したからです。

 見よ、おとめが身ごもって男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ。イザヤ書7:14、旧約1056)

 悪い王であろうが、必要な御言葉が与えられ、その道が備えられる。

 主は滅ぼすお方ではなくて、救うお方。しかし、人間が壊れている。罪の中にある。自分の思いの中に溺れている。先入観、価値観、こう思いたい。こうなりたい。こうありたい。そのことを先に考えて、神の言葉を聞いていないのです。

 

 本当に重要なことから目を離してしまった権力者はどうなるのか。

 先ほども触れたとおりです。「命をつぶす人」になってしまいます。

 

 非常に恐ろしい極端な現れ方なのですが、神から離れてその力をどちらに向けるのかということを見誤ると大変なことを招きます。

 神の民とさせられるということはどういうことなのか。それは神の御前にまことに跪くということです。礼拝する民として召されていくということです。

 その実態がなければ、いくら神の民なんだと自分で言ったところで意味がない。

 いうなれば内容を失っているのなら、すなわち、「跪いていない」のなら、ヘロデと変わらない状態であるとも言えます。

 

 自分は神の民であるということを鼻にかけ、ユダヤの民であるということを自慢し、内容は自我の暴走の中で人を殺めるもの。決して主に跪く人ではなかった。ということが起こってしまうことが世の常。それはクリスチャンも同じです。

 フェイクであるのか、本物であるのかということは、危機が迫ってきたときに明らかになります。ヘロデにとっては、自分の王位が脅かされるかもしれない。まことの王が現れるという知らせ、メシア預言こそが危機となりました。

 本当は危機でもなんでもない。メシアのまえに跪くという千載一遇のチャンスの中のチャンスしかなない。

 イエス様になんとかお会いしたい。一度でもお目にかかりたい。あの方のすぐ近くで時間を過ごしてみたい。そうヘロデが願おうと思えばすべてのすべてをかなえることができたでしょう。

 しかし、それらを全部台無しにしました。

 

 危機が迫るとき。そこで、私たち自身の本当の姿が暴露されます。危機はいろいろな形で迫り来ています。私の目の前にもあります。皆様の目の前にもあります。

 信仰に歩む民にとっては非常に大きなチャンスとなりますが、自分の力を手放さない人にとってみれば、自分の頑なさがオープンにさせられ、さらなる危機へと自分自身を追い込むことになる出来事となります。

 

 インマヌエル預言。この預言の言葉はユダのアハズ王の時代に与えられた預言でありました。しかし、メシア預言が与えられていてもことごとく無視しました。

 その結果メシアは後の時代に現れるということになってしまいます。

 後の時代にメシア預言をはっきりと受け入れて受け止めていったのは、一国の王ではなく、小さな小さなマリアとヨセフの家庭です。

 そこでメシアが受け止められていくのです。驚くべきことです。

 メシアは王の王、主の主です。王宮でうまれるべし。

 しかし、主はそのような場所をお選びになるのではなくて、信仰のあふれる場所。信頼の溢れる場所。主を信じて行動するというその小さな小さな場所を選ばれるのです。

 それは後の弟子たちの姿を見ても同じ。

 その後の時代すべてに貫徹されている姿。

 小さな小さな場所。しかし、信仰が満たされているところ。信頼が満ちているところ。

 そこに主はご自分の業を起こされる。

 使徒たちの姿もそう、後の時代の人たちもそう。現代においても、世界中で教会が命を吹き返しているところというのは、迫害の只中にあり、今にも吹き飛ばされるのじゃないかという強風の中で、ただ信頼に立とうとして、信仰によって歩む小さな家庭。

 その家庭があるところで物事が起こっています。

 

 皆さま。皆様は決して小さなものではありません。クリスマスを受け止めるとき。偉大な人となります。神様はあえて小さな私たち一人一人をお選びになられたのです。

 ここから偉大なものとするためです。

 メシアの誕生の知らせを受け取るものとして。力ないもので全然構わないし、何ももっていなくて良い。何かを持っていることを主は少しも求めておられません。

 何もないけれども、信頼だけ。

 しかし、そこに主の御業が起こる。メシアが誕生なさって、メシアが誕生なさったところには光が満ちる。主の心は皆様へと向かっている。そのことに気づいてください!!

 

 そのことに気づいて、親鳥の愛をわが身にうつすものが、隣人へその命を手渡します。

 

 占星術の学者こそが神をあがめる人として召されるなんて、本当に驚くべきことです。いうなれば、彼らは「異邦人」です。それは聖書の民ではないということを意味し、神の啓示から遠く離れてしまっている人という見方もできてしまう人です。しかし、礼拝者として整えられれいないと思われている人。その人こそ整っていました。

 

 自分は整えられていると思い込んでいる人が侮蔑するその人こそが、神を礼拝するようになるのです!

 

 恐ろしいことに、ユダヤの中枢のユダヤの王こそが、礼拝からは最も遠いところにいたということが示される。

 

 こころある皆さん!! 

 

 この世界で一番低いところをご一緒に目指しませんか。ページェントの最後の場面でひれ伏しているあの子どもたちの姿、中高生の姿。あれ以上を求めないといけない。

 この共同体の中で自分が一番低いという、そこまで本気で言い切れるぐらい、低く仕えてみませんか。礼拝者として。

 礼拝者として、主に従うとそうなります必ず。

 

 この石川という地において、金沢において、どこの誰よりも最も低く主に仕えていると言い切れるまで、そこまで低くなることを求めませんか。礼拝者として。

 礼拝者として、主に従うとそうなります必ず。

 

 礼拝者として生きませんか。礼拝者として生きませんか。礼拝者として生きませんか。

 

 小さなヘロデが自分の中でむくむくと起き上がってくる。

 自分を守るために誰かを犠牲にするという。。。

 その心を捨てて、主のところに行きませんか。

 保身を優先するような。何かを守るために何かを握りつぶしていくような。

 そういったものを全部手放して、御子の支配の中に入ることが私たちが立つ場所です。

 

 私たちは安心して、すべての力をささげて、主にお仕えすることのために身を乗り出していってよいことが、占星術の学者たちが教えてくれます。

 主は主の啓示に信頼をささげるこの学者たちに、逃れる道を準備してくださいます。

 夢でお告げをくださるのです。

 主の為に自分の思いを捨てるとそれを得る。

 

 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。(マタイによる福音書16:24、25、新約31)

 

 主を礼拝するために、すべてを手放したとき、それを得ます。アーメン。