2022年11月13日 主日礼拝説教 教会修養会 ペトロの手紙Ⅰ 2:1~10 「光の民、祭司的共同体、一致」 石井和典

 人間って本質的に重要な中心をこそ、脇にどけて別のことをしだしますよね。

 

 小さいときから「健康が大事だよ」って母から教えられてきたのに、自殺行為としか思えないような食生活をしていたりする。働くためだとか、ストレスの発散のためだとか言い訳をしながら。

 でも、基本的にどんな働きも、仕事も、自分自身の内部が充実していなかったら、良い影響は与えられないのですから、自分の健康を犠牲にして何かをするということは、おかしなスタンスだと冷静になれば思います。

 しかし、社会のためだとか、会社のためだとか、何かのためだとかいう大儀を付け、基本的に重要なことを徹底的に無視する。

 まじめな人ほどそういうふうにしている、完璧主義な人ほど、自分を犠牲にして、自分が病気になってはたと気づくのです。

 

 聖書に出てくる「まじめな律法学者やファリサイ派こそ」実は病んでいました。

 

 

 教会にとって大事なことは何なんでしょう。それは「主のもとに来る」ということです。

 「主のもとに来る」こと以上に大事なことはありません。

 しかし、その本質的に重要なことを脇にどけてしまいます。だからペトロは教会に勧告するのです。

 

 主のもとに来なさい。主は、人々からは捨てられましたが、神によって選ばれた、尊い、生ける石です。(ペトロの手紙Ⅰ 2:4、新約419)

 

 この言葉の前には、「主のもとに来たら悪口を言わなくなる」という内容も読み取れます。

 

 だから、一切の悪意、一切の偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。(ペトロの手紙Ⅰ 2:1、2 、新約419)

 

 教会に初めて来たときから、この基準って決定的に重要な内容だと思わされています。

 神様の命に生きている人たちは悪口は言えません。

 

 主の前に来ない時、主がいないと思っているとき、言えます。

 悪口を言う人は、その悪口をすぐ拡散するでしょう?

 悪口をいうと、実際は自尊心も傷ついています。脳科学的に、人の悪口を思っている時にその言葉が誰に向かっているのかというようなことを脳は判断できないので、自分自身にその毒が効いてきてしまいます。

 よくぞ神様はこの人間の脳をおつくりくださった!あっぱれと思います。

 だから、一目見れば、その人が悪口で心を満たしているのか、そうではないのかなど、ある程度は見えてきますよね。顔に毒が満ちているのかそうではないのか。

 顔つき、表情、態度にその香りが出てます。

 

 人のことを心の中で殴りつけていると思っていても、実は自分をボコボコにしているのですから影響は表に出ます。

 

 主の御前に来るということが、いつも要の要です。主イエスの十字架の前にいるということが要の要です。

 主イエスが、命をささげて、一人の人を救うために苦しまれ、血を流された、というその姿を見ていれば、目の前の救われるべきひとにどのような態度をとるべきなのか、明確に示されます。

 イエス様が命を注ぎだしているその相手に対して、悪意、偽り、偽善、妬み、悪口など、持てないんです。主が目の前でみているという感覚ならばです。

 

 なぜなら、自分自身こそが十字架の血潮によって、滅びの淵から救い出されたものだと知っているからです。本当は、自分が滅ぶべきものだったわけです。

 

 先日、金沢長町教会の、加藤孔二牧師と話していて、お互い顔を見合わせながら、「我々はもっとおおらかに、柔らかくならなければならないよね」って確認したところでした。なぜなら、ノアの洪水の時代に人類絶滅の危機を経験したわけですが、その時に民がしていたことは、「自分がしたいようにやりたいようにやる」ことでした。

 神様のご存在を考えず、天使は人間に、人間は天使に恋をして、神が決められた垣根を勝手に超え始めました。

 神様を抜きに、自分たちがしたいことを最優先していたわけです。

 その姿ってなんだかノアの時代から何千年も経った現在の教会においても変わらないような気がするよね。

 何より私たち牧師、私たち自身が神の裁きを免れることができないような状況を呈しているのに、「まだ滅ぼされていない」という現実。この現実こそが赦し以外の何物でもないよね。

 これは神の憐みが注がれていること以外に考えられないよね。

 この絶対的な赦しのまなざしの中にあることを意識すべきだって。確認していました。

 

 滅ぼされてしかるべき歴史が展開され、人類は殺し合い、また殺し合い。

 

 それでも、自分たちの負の歴史を、「自分の罪の悔い改め」として見ることはなく、相手を責め、責め続けて争い、殺しあう。

 

 神おひとりが徹底的な犠牲を払って払って払いつくして、忍耐して忍耐して忍耐しつくして待っておらえる。

 

 そのお方のまなざしのもとに行かなけば、私たちは正常に生きることはできない。

 これが現在経験している世界ではないでしょうか。

 

 

 注意しないと本質的で大事な前提を常に忘れるのです。。。。。。

 

 はじめの使徒たちの時代ってやっぱりどこか羨望のまなざしで教会をみてしまいますから。なんか神々しい光をはなって私たちと違う特別な教会であったとか、そんな風に思い込みたくなってしまったりしますが、、、変わりません。

 主の十字架を信じ、確信して、教会を形作っていったその次の瞬間即座に、中心を見ることを怠っているという状況になっています。

 その結果、「悪意、偽り、偽善、妬み、悪口を捨てなさい」と教会のリーダーであったペトロが勧告せざるを得なくなっています。勧告せざるを得ないということは、悪意をもって悪口を言い合う関係がそこにあったということです。

 シンプルな勧めである「主のもとに帰りなさい」という当たり前の前提がないがしろにされているから、このような当たり前のことを大きな声で強調せざるを得なかったのです。

 

 祈りの生活をしてみてください。死ぬほどズレまくる自分の状態に否応なしに気づきますよ。毎朝起きた瞬間から黙想してみてください。早天礼拝をささげはじめてから、少なくとも1時間は私は毎日黙想しています。

 そこで気づくのは何か「自分の信仰深さ」じゃないですよ。自分が死ぬほどズレまくっているということをまざまざと見せつけられるということです。

 

 毎日、私は本質的に選び取るべきものは何か、そんなことを黙想しているのですが、一日の初めにそれを紙に書いて、書いた次の瞬間忘れてズレます。肉の影響というか、自分の欲望の影響というか、自分の脳の癖というか、信じられないほどに、神から外れていますよ。

 

 しかし、それに気付けば気づくほどに、聖書のより深い理解に至ります。聖書が力を発揮し、自分の人生のパワーになってくれているのだという実感をいただけ、自分の中で、革命に似た変革が起こされていくのを実感するようになります。

 

 「ひゃー、ろくでもない。オレめっちゃズレてるな。」

 

 そのことに気づいたら、そのあとに主の霊的な、精神的なお取り扱いが待っています。

 目が見えるようになって、視野が開けます。

 

 視野が開けて見えてくるのは、「神はすべての状況を全部見ておられる」ということです。

 

 主が見ておられるという光で「自分自身が見えるように」なります。

 その光というのは、主が憐みの目で私を見ていてくださるという内容となります。

 あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが今は神の民であり憐れみを受けなかったが今は憐れみを受けている」(ペトロの手紙Ⅰ2:10、420)

 

 神に属するものであるというアイデンティティが回復され、神が憐れみ、愛の思いで見ていてくださっているということを回復しているということです。

 神が私を愛し、私を憐れんでくださっているとこころの底で味わえば、その受けたものをそのまま隣人に返すというか、隣人に同じように接する以外に道はなくなるのです。

 

 何か冷たくされたり、何か悪意にふれたり、悪口にふれたり、傷つけられたりしたとき、わかることがあります。傷つけてくるその人は、「神の心がどこかに吹き飛んでしまっている」ということです。だから、癒されるように憐れみの視点でみることが大事です。隣人に対する態度はすべて、神様のことをどのように思っているのかということと深くつながっています。

 

 よくふりかえってみれば、受けたままに、それを反射して生きるように人間は召されているのを感じます。

 具体的に言えば、私は昨年亡くした父のことをいつも思い出してしまうのですが、テレビに向かって政権の悪口とか、人の悪口とか言いまくっていた父でした。やっぱりそれは私の内側に反射されてしまって、なんかあればすぐに人のせいにしてしまう愚かな私がいることに気づきます。

 しかし、悪いところだけではないということも思い出します。

 「父が消火器をもって走り回っていた映像が私の頭の中にこびりついている」のですが。近くの家でボヤ騒ぎがあったときに、消火器をそこら中からかき集めて初期消火に必死の形相で走っていた父。

 隣人に対するやさしさを持っていたのは間違いないのです。私もそのようなすぐ近くの人の為に走る人を見ると、すごく心が感動しますし、消防士に対するリスペクトとか、そこから派生して、宣教師のような人たちに非常に心深く惹かれるところがあります。

 誰かの救いのために必死で走る人たちに感動するのです。

 

 受けたものが心に刻まれるというか。そして、自分もそのようにやがて動きたいと思うようになるというか。そういうものなんですね。交わりの中で、そして神様のご性質に属するようなものが私たちの中にあるわけですが、それに触れていくと、動かされていくのです。

 

 だから、私たちは、いまイエス様から「そのお心」を全身に受け取っていく必要があります。

 このように召された皆様方は、聖書の中にずっと描かれている、ダビデ王のような祭司。

 詩編を書いたダビデのように神との関係の中に生きるものです。

 そのものは、聖書の中にしるされているすべての祝福を受け取るものです。

 聖書の中に記されているメインストリームというか、「主人公の中の主人公」として召されている。それが選ばれ、王の系統を引く祭司とされたもの、そして、神の光が注がれて、神のまなざしが注がれているもののあり方です。

 その主人公たちが本当の意味で大活躍しないと、周りの民は困ってしまいますよ。

 本当に大事なことがわからないと、真理を知りたいのにと。

 

 聖書の中にはいろんな人が出てきますね。その一人一人のスタンスってどんな風に描かれているのかというと、神に対してどのような姿勢をとったかということが描かれています。

 神に対してどのような姿勢をとったかが、また隣人に対してどのような姿勢をとっているのかということが直リンクしているということが見えてきます。

 

 皆様は、キリストからのご愛を徹底的に受け取って受け取って受け取って、受け取れないぐらいに受け取りまくって、祝福されて、祝福されて、祝福されて。痛いほどに自分が赦されて、赦されて、赦されているということを体験して。

 その主のご愛の泉の中で、心が暖かく暖められた人として、隣人のもとへと遣わされていくのだと思います。

 

 この間、馬場幼稚園の近藤留美子先生が、子どもが成長していくのを見るのが楽しくて仕方がないっておっしゃってました。

 2000年前のクリスマスはどんなんだったんだろうねというような問いかけを子どもたちにしていて、子どもたちが自分で今の生活の違いとかを探っててくような課題というか問いかけがあって、それに園児がすごく的確に、自分の頭でちゃんと考えて、ちゃんと応答している。掃除機は2000年前はどんなんだったんだろうとか、扇風機はあったのかなとかね、洗濯機はとか(笑。

 で、かなり的確に想像力を働かせて正解をだしてしまっている園児たち。

 そのことに純粋に感動しておられたのです。

 「成長を信じて一つ一つ見守っておられる姿」に感動しました。

 

 幼稚園の先生ってみんなそうなんだろうなぁと思いました。

 

 

 神様は私たちの成長を死ぬほど信じ切っているはずです。

 そうでなければ、御子を十字架になどかけません。

 やがて、悟るだろう。やがて神の愛がどれだけ深いものか。その愛をこころにうつして、本当に大切なものを選び取ってくれるだろう。一歩一歩を自分なりにささげることができるようになるだろう。

 

 ちょっとでも神様の思いを聖書を通して悟るようなことがあったら。

 イエス様の心に、神の心に感動して、涙がツーっとなったら。

 その私たちの感動は大事なのですが。

 その姿を神様がみて、「神様が感動しておられる姿」まであとからでも見えるようになってくださいね。

 成長を永遠にと願ってくださっているのです。

 一緒にと神様が私に思ってくださっているのを見てください。

 

 それを見ないと何をやってもダメですね。

 それを見ないと私の経験からして、すぐ脇道にそれる。

 毎日朝の1時間黙想で私は経験しています。

 すぐ別のことしだす。

 朝、時間をささげて黙想してても、最高に鮮明だと思っていてもすぐ心がズレまくる。

 でも、神様のあたたかいまなざしに気づいたら、、、しずかな微笑みが、感動が心を支配してきますよ。光の民として生きましょう。何のための十字架だったんですか、皆様が愛の光を輝かせるためです。アーメン。