2022年10月16日主日礼拝説教 マタイによる福音書25:1~13 「油を準備する」石井和典牧師

 本日の箇所には、恐ろしいことが書いてあります。恐ろしいこととは「選ばれたけれども、天の国に入れないものが出てくる」ということです。ただ、安心してください。このような厳しい記述は、私たちを確実に神の国にあずからせるための主イエスからの注意であるということを忘れないでください。ただ、神の国にあずかっていないということがどういうことなのか明らかにされてしまうので、人によっては非常に痛い話かもしれません。

 

 当時の社会では、花婿は花嫁の両親の家まで花嫁を迎えに行きました。おとめたちと招待客は花婿の両親の家に戻る二人を待って、それから祝宴が行われました。二人を待つ間、灯されるランプが油切れで消えてしまわないように、おとめたちの中には周到に予備の油を準備するものがいました。

 おとめたちは、この祝宴がまことに喜びの場となるように、心を注いでいったのですね。

 

 主人と共に喜ぶ喜びの宴会のその場を夢見て、備えていくこと。ここにすべてのフォーカスが向かっているという、そういう状態を主は求めておられるわけです。私は、どちらかというと、楽しいことばかりを追求してしまう享楽主義的なところが多々ありですが。そういう私にとって、この主人(イエス様の)の宣言というのは、こころが軽くなる思いがいたします。というのも、やっぱり聖書を読んでいたり、信仰生活を続けていたり、人と話したりしていると「こうすべし」「ああすべし」「あなたはこれをするべきではなかった」とかいうことが満ちてきて、焦燥感が喚起されてきます。そして、自分の心のざわめきに支配されて「祝宴に向かう」のだという意識が薄くなっていくからです。

 

 旧約聖書申命記を祈祷会で読んでいますが。申命記10章17節以下にこのように記されています。

 あなたがたの神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神、偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。だから寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。申命記10:18、旧約282)

 とりわけ、天の神様は寄留者、孤児、寡婦(当時の社会的な弱者)と祝宴の時、分かち合いの時、喜びの時を一貫して申命記全体で求めておられることを思います。

 そのためにイスラエルが満たされ尽くすことをお考えくださっていること。信仰の民が、従順に主にお従いしたのならば、お従いした分だけ、満たされるようになっていることを。見えない次元の主を意識した民が実感し体験し、主のご存在を社会のすべての人たちと分かち合って宴会を、とりわけ社会の中で弱さを抱えてしまった人とその恵みを分かち合って、主の恵みが爆発するように。

 この礼拝をささげていくこと。これを主が求めておられることがわかります。

 

 喜びの祝宴に向かって常に準備していく。

 そのために全勢力をかける。わき目もふらない。

 弱くさせられてしまっている人たちが、救いを体験し、喜び、一緒に主の御前に行きましょうよ、花婿イエスのところに行きましょうよ。

 という、その瞬間を夢見て備えている。

 イエス様の命に預かり、復活の命を体験し、人生をすべて変えていただいたものたちが、こぞって自分が一番低く跪いて主にお仕えすることを夢見ている。

 それが教会だということです。

 

 意識の集中がそがれるとすぐ別のことをしはじめますね。

 金に集中しはじめたり。権力に集中しはじめたり。争いに集中しはじめたり。怒りに集中しはじめたり。本日の例えの中では、眠ってしまうということが、意識がそがれるということを象徴して記しているように思います。

 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆うとうとして眠ってしまった。(マタイによる福音書25:5、新約48)

 みーんな、意識を集中することがなかなかできないで眠ってしまいます。賢いおとめも、愚かなおとめも一緒なんですね。人間の弱さというものが、正直に描かれていると思います。イエス様はこのような弱さを人の中に見ておられます。

 しかし、その歩み全体、その心全体で、主人の方向に向かっていたのかどうかということは、全体を見ていけばわかってきます。賢いおとめたちは眠ってしまったけれども、しかし、準備はしておったのです。

 「悔い改めよ天の国は近づいた(マタイ4:17)。」という言葉にもとづいて、自分の方向を変え続ける、自分自身が変化し続けるという方向に向かっていくことがまさに、油を準備しておくということに類する内容だと思います。油ですから、聖霊を指し示すわけですが。だから、油を満たしていること、神の心に満ちていること。これが重要なわけです。

 主人である主イエスが来られたら、自分の思いではなくて、主の思いに満たされて。

 自分の思いを脇におき、私が主のご意思に従わなければいけないのですから、その時の準備として「悔い改め」があります。悔い改めは、洗礼を受けるときに、神の方向に一度向き直って洗礼をうけてそれで終わりではありません。

 絶え間ない悔い改めが私に迫ってくるということが、聖書と真摯に向き合っていくことです。

 それを早天礼拝に出席されている方は、痛いほどにお分かりいただけるかと思います。私は毎日のように強調しています。創世記を今読んでいますが、イスラエルという名をを冠した信仰の父とも言えるヤコブは何度も悔い改めなければなりませんでした。

 ベテルという、決定的に重要な回心の場面を人生で一度ではなく、何度も経験しなければなりませんでした。

 というのも、いつの間にか神を中心とした発想ではない、世の霊が入ってきて、それによって心は乗っ取られてしまうからです。

 「偶像を捨てよ」という命令を主から受けて、自分自身の歩みを改めていくのです。

 

 油を持っておくということは、自分自身の思いへの諦めという悲しみをもたらしますが、同時に、主のお取り扱いの中で、癒しを経験する場となります。

 創世記のヤコブの記述はとても示唆に富んでいます。人々が主の思いを純粋に保つのではなくて、別の何かによって生きるようになると、そこに争いや、殺人、炎上と破壊とが入り込んできます。

 調和と平安、喜びではなくて、混沌と、不和と、争いが入ってくる。

 それは信じるものたちの姿勢がズレてしまっていることをあらわす現実への表出です。

 そういう問題があるということは、内側に、神様への信頼ではなく、何か別かが中心に置かれてしまっているということを指し示すインジケーターとなっています。

 しかし、悲しいことに、人間は自分自身の姿が見えません。そして、多くの場合自分自身が問題であるということに気づいていません。

 

 そこで、神が上から介入され、言葉をくださり、回心の場所(ベテル)をおつくりくださるのです。それが記されているのが創世記28章のベテルでの回心と、35章の再びベテルでの回心という記事へとなっていくわけです。

 何度も悔い改めが必要なのです。

 

 多くの人は、問題が起こったら、私が悔い改めるべきではなくて、「相手が悔い改めるべきだ」と言います。しかし、そこで問われているのは、いつも変わらず、いつ何時も変化することなく、「私が神の前に立っているのか」「あなたはどこにいるのか(創世記3:9)」なのです。

 何がズレているのか、気づいて立ち帰るならば、圧倒的祝福があなたをつつむでしょう。

 けれども、ズレていることにさえ気づこうとせずに、通りすぎ続けると、同じ問題で躓きます。

 

 祝福をいただくと人は飛翔するように羽ばたいて自由になっていきますが。逆に呪いに落ち込むと、同じことでずっとストップし続けるという負のスパイラルに落ち込みます。その結果、どこまでも立ち帰ることなく落ちていくといことになります。

 地獄の扉が開かれるのです。地獄の扉が開かれそこから魑魅魍魎がわんさか出てくるということが無いように。。。

 

 油を整えておくこと。

 主の心が中心にあることを意識的に選び取る。他の何かを置いていて、油が切れているのならば、いち早く気づいていくこと。

 

 油を準備しなかったらどうなりますか。

 これも恐ろしいことが書いてあるのですが。。。。

 祝宴から締め出されます。。。

 

 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が着いた。用意のできている五人は、花婿と一緒に祝宴の間に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『よく言っておく。私はお前たちを知らない』と答えた。(マタイによる福音書25:10~12、新約48)

 

 しかし、実際の主のお姿というのは、そんなに簡単に私たちを締め出すお方ではありません。

 私は、先々週もお話したように思いますが、神学校の時も、洗礼を受けたそのあとも、主の心を踏みにじってきたということがたくさんありました。油の準備をしていた、主の心で自分が満ちるようにと準備をしていたとは言えない時期がたびたびありました。

 にもかかわらず、私は見捨てられていない。この御言葉を聞いて、改めるようにと迫られている時は、まだまだ見捨てられていないわけですね。

 聖書を前にしているということは、全然見捨てられているわけではなくて。むしろ主は私たちを迎え入れようとされているから、気づくべきことに気づいて。主ご自身でも介入なされない、私たちの心を私たち自身が自分の意思を用いて、方向を変えることを願っておられるわけですね。

 

 そして、私たちの姿勢が少しでも変化したら。どうなるかというと。。。

 

 放蕩息子の帰還の記事を見てください(ルカ15:11以下)。

 遠くから、見定めて、走り寄って来てくださり。主人の子どもであるということを誰が見てもわかるように、主人の着物を着せ、指には主人の権威である指輪をはめさせて、奴隷状態からの解放をさししめす履き物をはかせるわけですよ。

 そして、だれがどう見ても、主が祝福してくださっていて。神様の子であるということが明らかになるわけです。

 

 ということはね。恐ろしいことを今から言いますよ。。。

 

 変化していかないということは、少しも私たちが自分のスタンスや進む位置を、主に合わせて変えていないということなんですよ。。。

 だって神様は、千里眼の目で、すべてを見通すことができる真実なる目で、私たちのすべてを見通し、その一部分でももし神に帰る思いがあったら、、、放蕩息子が何をしていてもそこに迎えにいって、抱きしめてしまう父なんですよ。

 ということは。。。もう何もいいません。

 

 

 大阪で出会った、お好み焼き店の店主でクリスチャンであるお方が、わたしに「先生、悔い改めですよ」って出会うたびに言ってくれました。本当に驚くべき出会いが実は準備されていたんですよ。その方がおっしゃられていたことが、今でも私に力をもってのぞんでいます。ルターの言葉と同じです。

 

 「われわれの主であり、師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ』と言われたとき、主は信じる者の全生涯が悔い改めの生涯であることを望みたもうたのである。」

 

 本当にたった一言。

 主に向き合った人の、たった一言。変えられた人のたった一言。そういった人の言葉ひとつを通してまた主はかたり、変えてくだださるのですね。もちろん背後には、聖書全体の記述があってのことですが。そういう一人の使いが私のすぐ近くに置かれるわけです。

 

 主が何をお話くださるかを聞いて、その言葉に満たされて(聖霊に満たされて)いるか。

 それとも別の満たしをうけるのか。

 

 祝宴を思って生きていきましょう。私が、あの人が迎え入れられる祝宴のために。アーメン!!