イエス・キリストは死に、復活し、天に昇り、神の右の座に座しておられる。そのキリストがまた再びお越しになられる日が来るのだと伝えられています。
主人がやがて来られることを期待して待っている民は幸いだと記されています。信じ、愛している民は、待ちます。そうでない民は、別のことをして自分の人生を歩むのです。
家族が争いで離散し、世界中に散らされてしまった。現代において恐ろしい戦争によって家族が散らされるということが起こっています。そんな時に、いつもその家族のことを思い続ける。愛するということはそういうことでありましょう。だから、イエス様の不在を思いながら、イエス様が復活の肉体をもってこられる日を何があっても待ち望み続ける。それが、今この物理的な次元においては主イエスのお姿を失っている私たち教会が志している内容となります。
イエス様に恋焦がれて、待っている状態。それが私たちの状態です。
エジプトのカイロのコプト教会を訪問させていただいたときに、教会の前ですごくおしゃれなエジプト人の紳士が背広を着て、杖をついて日曜日にそとにおられたので、あぁ、この方は礼拝に備えて服装も全部整えてこられたのだなぁってわかりましたから、「クリスチャンですか?」って聞いてみたら。そうだっておっしゃられて、背広の胸ポケットからキリストの小さな絵を取り出して、何度もその絵にキスをしておられました。
心がイエス様のご愛によってつながったと思いました。
我々はキリストを思う心で、あらゆる障壁を乗り越えていくことができるのだと思います。
私にとってその一瞬というのは、永遠に重要な一瞬だったんだと今思います。海外旅行なんてほぼしなかった私が、エジプトに新婚旅行だからって妻に連れ出され、もちろん妻は聖書を研究している私に気をつかってエジプトのシナイ山を新婚旅行の場所に選んでくれたのですが、私はどちらかというと、なんだか乗り気がしないけれども新婚旅行だからって感覚で、海外に出たのでした。
しかし、その一瞬だけじゃなくて、自分の心を打ち破って外に出ていくことがいかに重要であるのか、何も自分はものを見ていなかったんだと今も確信させられる出来事がそこにあったわけです。
イエス様に恋焦がれる思いで、時代を越えて、場所を越えて、つながり、弟子たちが集まり続ける。そのような共同体が教会です。
すべての障壁を乗り越えていきます。
そこで行われているというか、一人一人が向き合っている現実というのは、ほとんど普通の人たちは変わらないかもしれません。というのも、ここに記されているように、イエス様は終わりの時に起こることをお話くださっていますが、以下のようなことが起こるようです。
その時、畑に二人の人がいれば、一人は取られ、一人は残される。(マタイによる福音書24:40、新約47)
畑に二人の人がいて、他の人たちからみたら、べつにこの二人は全く同じようにしか見えないわけです。しかし、一人は連れて行かれ、もう一人は残されて行きます。これを携挙(信じるものたちが先に天に挙げられていく)に関することが記されているのだと考える学者もいます。携挙自体をどう考えるのかというのは、いくつかの意見が分かれます。
しかし、ここからわかるのは、人間というのは、全く違う現実をそれぞれが生きているということです。一人は神に向かって生きていて、準備をしている。同じ畑仕事をしていても、単に畑仕事をしているのではない、主にお仕えする思いで、日々を過ごしている。その人の心の内には、主を思う不思議な落ち着きや、喜びや感謝が満ちていくことでしょう。聖書に記されている徳が内側に実っていきます。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテヤの信徒への手紙5:22)です。
方や、そういったことを意識せずに、自分の人生を何かの自分の思いでしか生きていない人です。そのような人には、聖書が教える実りが実るかどうかはわかりません。
私たちは天を生きることもできるし、地獄を生きることもできる。天や地獄というのは、私たちは後に向かう場所として確かにあるのだと聖書を通して知っていますが、先の話ではなくて、今ここで、この心の中で、どのようなことが展開されているのか。
それが天を指し示すものであるのか、それとも人間のことのみ、自我のみ、それはすなわち神を見失った地獄を指し示すものなのですが、どちらかであるのかがわかるということなのです。
私たちはこの記事に向き合うことができたので、幸いです。
自分を見るその目を持つことができるからです。
あえてノアの日の洪水のように、その日が一体いつくるのかわからないようにしてあります。天の父なる神があえてそのようにしておられることがここに記されています。
ですから、聞く耳を持つものしか、目を開くことはできないんだというふうにされるということです。ノアのように無垢な心を持つ者が心を開いていくのです。
ノアはどんな人だったのか、今一度確認しておきます。極めて重要なことだからです。
ノアの歴史は次のとおりである。その時代の中で、ノアは正しく、かつ全き人であった。神と共に歩んだのがノアであった。(創世記6:9、旧約7)
全き人というのは、どういう人でしょうか。それはこの世の感覚とはずいぶん違います。私たちが自分自身に期待している完全さとは違います。私たちは何ができるかできないか。自分の性格がよいのか悪いのかということに執着している気がします。しかし、神様がこだわっておられるというのはどこかというと、「神と共に歩んだ」ということです。
ここに生きるのであれば、その人は完全だというのが、主が私たちにおっしゃりたいことでありましょう。一緒に歩もうねと主はおっしゃってくださるし、私たちが意識してそのように歩むのであれば、その人を主は喜びとしてくださるということです。これは、強烈なメッセージだと思います。
神がおられること(見えないけれども)を意識して待っているということです。聖書の中でヤコブが回心していく場面が記されていますが、ヤコブが回心したのは、「ここが神の家であるということ」に気づいたときです。
ヤコブは眠りから覚めて言った。「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。」そして怖くなって言った。「この場所はなんと恐ろしい所だろう。ここはまさに神の家ではないか。ここは天の門だ。」(創世記28:16、17、旧約42)
ノアも、周りの人々は神様が、言葉をくださっているのだということを意識していませんでしたが、ノアだけが、見えないけれどもおられる主を意識して、そのお方が私に語ってくださるのだというところに生きていたのでした。ヤコブの人生もこの主を発見するという転機から、歩みのすべてが変化していったということを知ることができます。それまでは自分の身を守るためには、人に危害を加えても構わなかった、自分の欲望のためであれば、人の人生を犠牲にし食い物にできてしまう人でありました。しかし、「主を悟る」という一瞬から変えられていったのでした。
本当に、一瞬だと思います。主にまことにお答えする。応答する。今まで無視してきた主のお姿に気づいて、一瞬一瞬を生きるようにすこしずつなっていく。その変化を生み出していくのは、一瞬から始まることです。
一瞬、今までの心ではなくて、主に向かう心で実際に行動してみる、そこからみるみると変化がはじまっていくことを体験するのです。
教会は神様から使命が与えられた僕です。
僕の役割は主人が命じてくださったことに忠実であることです。
忠実であるということはどういうことかというと、家の人々に食事をちゃんと提供するということであるということ本日の個所からわかります。
「主人から、時に応じて食べ物を与えるようにと、家の使用人たちを任された忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。(マタイによる福音書24:45、新約48)
教会は食べ物の管理者です。神学校に入って一番はじめに、新約聖書神学の中野実先生が教えてくださったことですが、神学者というのは水の管理者なんだっていうことを教えてくださいました。神学するというのは水がしっかりと命を与えるものであるのかということを見張っているのだと。食べるものであり、水。命をあたえ、決定的にその人の歩みを導いていくものです。
食べるものによって、この世でできるパフォーマンスなんてほぼ決まってしまっているとも言えます。ちゃんと食べるべきものを食べていないといけません。そういうことをわかっている民が、忠実に本当に必要な食べ物を民に供給しようとしている。それが、聖書を知っている民がするべきことです。
これをわかって、本気で忠実さのすべてをささげていこうとする民を主人はどのように扱うことでしょうか。
よく言っておくが、主人は彼に全財産を任せるに違いない。(マタイによる福音書24:47、新約48)
主人の心を読み取ってください。
皆様にすべてのすべてを、捧げようとしている。与えようとしている。受け継がせようとされている。だから、御子をまでおしまずお捧げになってしまうのです。
父なる神さまは。全力で、全投入、すべてを皆様に与えようとされているのです。
主なる神は、皆さまおひとりおひとりに、全体重をのせているのですよ。
全部あげようとしている。
これを、私たちは受け止めたいと思います。主が与えようとされているものを確認してくださいね。それは申命記28章の祝福の言葉の中に記されているので、思い起こしてください。これは私は何千回どころかもう何年も自分に言い聞かせているので、何千回も言い続けますよ。
皆様の中から、本当に私は主の祝福を受け取って幸いを得ていますという実感と証と、そして、その姿をこの地域の民が見て恐れを抱きはじめるまで。
そういうものを受けることができるのだという心を受け取るがゆえに、なおさら、私たちは、仕えることに集中しはじめるのです。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。(マタイによる福音書25:31、32、新約49)
羊には、神様が与えようとされているすべてを与えるのですね。
羊は何かというと、羊飼いのことを意識している弱く弱く、自分一人では生きていけないものです。しかし、主を見ることを知っている。羊たちは何をするのでしょうか。
あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』(マタイによる福音書25:35~40、新約49)
自分には力はないけれども、すべて羊飼いからいただいている、そういう認識に立つ羊はそれは小さな一人の人の中に自分自身を見出して、そのお方にお仕えするようになるのです。ここに記されているのはこうすべしということというよりも、羊とさせていただければ必ずそうなるよねということが書かれています。
だから、何が起こっても安心してください。羊であれば良いのです。羊飼いを見失わなければ良い。
先に何が起こるかなんてわからないのです。いや、これまえもずっとわからなかった。だけどわかったかのように生きてきた山羊だったのです。そこから救い出されました。
生まれた瞬間からずっとわかっていないのです。私がなぜ生み出されたのか。もちろん聖書を通してそれは愛されているからだと読み取れますが、しかし、私がこの世でなさなければならない使命。また、これからどのように乗り越えていくのか。そのことも何年もわからない。ヨハネ黙示録を通して終わりの時に知識が少しずつ蓄えられていっても、それでもわからない。
でも、わかることはあります。
羊として、羊飼いに守られているものとして、兄弟姉妹が飢えているのを見て、食べ物を提供したのか。命の水を差し出したのか。その人の渇きが癒されるようにと願い動いたのか。神様の心に合わせて、自分自身を使ったか。
主はこの一人に食べ物を与えようとおされている。
物理的なものだけじゃなくて、霊的な命の糧である聖書を。この命の言葉に与るものが出るように、動いたのか。
そこに意識を集中させていたのか。
羊であったのか、山羊であったのか。羊飼いを見ていたのか、見ていなかったのか。
問われる日が来ますよ。
その時に、「お前に全部をやろう」とお考えくださっていた主の心に全員が立つように。また、この地にあってもその心を受け取って、豊かに歩むものを起こして。まず、私たちがさもしい思いを捨て去って歩むことができるように。
羊であるように。祈ります。アーメン。