2023年1月8日 主日礼拝説教   マタイによる福音書27:1~10 「悔い改めの福音」 石井和典牧師

 イエス様のまえでは、恵みの認識とともに、「自分は一体なにをしてきてしまったのだろうか」という、後悔がつのると思います。

 だから、いつでも自分の思いを変えることができるように、柔らかく柔らかく。

 大抵自分が「間違いないと思っていたことが、主の御前では間違っている」ということに何年も経って気づくことになります。

 特に自分が絶対に人に譲りたくなかったところ。そういうことを歳月が経てば経つほどに、なんであんなことを自分は言っていたいんだろうと思うようになります。

 

 だから、「自分の心を手放す」こと。これを主の御前で行うことを習慣にしていくとよろしいかと思います。私も、毎日の祈りの時間の中で、自分の心を手放して行こうとしています。

 

 そうしない限り平安は訪れないからです。

 

 主の御業への意識。

 主がなさってくださったことが、解像度高く、鮮明に明らかにさせられていく。心の雲が晴れて、主の御手が私に対して注がれていることに気づくことができるようになっていく。そのことによって、喜びがこの内側に満ちてきて、喜びに満たされていくと、平安がこのこころの基調となっていく。

 そのようなできごとを経験するのだと思います。

 そのためには、自分の思い込みというバイアス(偏り)や靄(もや)を放棄する必要があります。

 放棄しなきゃいけないのは、自分で握りしめている限りその雲を自分の力で引き留めて、自分の思いによって主の心が内側にはいらなくなっているからです。

 

 そして、いつもいつも私たちの問題として、高く立ちはだかるのが、「裁く」ということです。本日の箇所で注目しているのはユダのことでありますが。

 ユダは自分自身のことを裁いてしまって自死してしまいます。

 

 自分で自分のことを裁くのをやめてください!

 自分で自分を裁かなくていい。

 

 自分のことも、人のことも、裁かなくていい。

 

 裁くのではなくて、大事にしなければいけない。

 裁くのではなくて、主のもとにいって一緒にひざまづけばよいのです。

 

 そのために、まずは、「自分自身を主の御前につれていくことがなによりも大事」です。これができていないから人を裁くのです。自分自身を主の御前につれていかないから、主が見えないのです。

 

 主の御前にある自分を維持できなければ、主イエスが私にしてくださったことを人にすることなど絶対にできない。

 主イエスは私たちに道を示してこのように歩みなさいと教えてくださいました。それが山上の垂訓にしめされている(マタイによる福音書5~7章)、キリスト者の道です。

 

 しかし、この道の先頭に主イエスご自身がおられて、私たちが羊としてひざまづいていないと、決して実現することができない、非常に難しいことが書かれていることがわかります。

 

 先導者の主イエスが見えないと決して実現することができない。だから、その先導者がいるかどうかということが私たちにとって要(かなめ)なんです。

 その要が崩されているのならば、何をしていても、そこに秩序を作り出すことはできない。命を生み出すことはできない。命ではなくて、破壊とカオスが起こってしまうのです。

 

 「人を裁かない」ということ、主イエスが私の目の前におられると思えないと絶対にできないと思います。

 もう私などは、何十年もいろんなものを見ながら、いろんな人を裁き、自分が神のようになって裁き主の立場にたって生きてきてしまった。

 その恐ろしい罪の歴史が、私の体の隅々までしみついて、癖がしみ込んでいる。

 罪人の中の罪人でしかない自分がいる。

 その罪人が義なる人としてキリストと共に生きるためには、「すぐ近くに、目のまえに」主イエスがおられるということを黙想しつづけないといけない。

 

 ローマ帝国に対して抵抗運動を起こす気が全くない、力がない、一人の小さな青年が、メシアなはずではない。

 そのような先入観をユダは捨てることができなかった。

 

 しかし、私たちにはよくわかっています。この弱さこそ、このお方こそが、このメシアこそが、もっともと力づよきかたで、私たちの人生のすべてを根底から永遠に向かって変えてしまうお方であることを。2000年後であろうが、その後であろうが、その言葉の剣(つるぎ)をもって私たちを導き、私たちを羊として養い、力をもって導いてくださるお方であるということ。

 今強烈に私たちに力をもって望んでくださっているメシアの言葉。私たちの存在そのものに変化をもたらし、毎日変化を与えてくださるお方。

 そのお方に今ここで人生を突き動かされているので、人間的に見たら弱さの只中にあった、敗北の姿をとった主イエスこそメシアであることを体験的に私たちは理解しているのです。

 

 非常に大きな大きな視点で。

 何千年というスパンで。

 この2000年後の小さな小さな、社会の片隅の私に寄り添う。

 その信じられないぐらいに大きな愛に生きるため。

 主は、小さな小さな一つの家庭をあえて選ばれて生を受けられ、その小さな歩みを生き抜いて、小さな一人の人に触れることを最優先してくださったのです。

 

 ほかにもできることは全能者ですから信じられないぐらいにたくさんあるのでしょう。

 世界に大きな改革を起こす。驚くべき天変地異を起こす。この世の終わりを彷彿とさせる驚くべき出来事を起こして、人々の心を回心させる。なんでもできます。全能者なのですから。しかし、主は小さな私に触れることを最優先してくださったのです。

 これこそ、王の王、主の主。メシア。

 私はこのお方のためにこれからも永遠に、命を捨てても、何を捨てても、なんの後悔もない。

 王が私に目を留めてくださっているのですから。

 究極の喜びが2000年後の今ここにあります。

 

 世界の真ん中のお方。真理の中の真理なるお方がそのご愛をこの小さな私に向けていてくださるのです。だから、私たちにはなんでもできます。

 私たちには何もできませんが、何でもできます。

 

 だから、主イエスはあえて社会から捨てられているその人たちのところに行かれました。

 人々が決して触れることのない天刑病を負ってしまった人に触れ、小さなヨセフとマリアの家庭を訪れ、羊飼いのもとに光をくださり、ユダヤから徹底的に差別されている占星術の学者たちに知らせを届けてくださり。

 

 小さな小さな一人のところに、知らせを届けられたのです。

 それは2000年後の、この小さな小さな私のところにメッセージを完全に届けるためです。

 聖書を読めば読むほどに、社会が、世が私を見捨てようとも、主だけは私を見捨てることをなされない。毎日の小さな一コマ一コマに主がおられるとわかるのです。

 

 今も、この地上で涙しているその一人に主イエスのこころが届く。そういうところを目指している視点のことを、当時の人々が理解できるはずはありません。

 ましてやユダが考えること、それも当時の人々にとっては常識的な判断だったでしょう。だから、使徒たち以外は、皆イエス様が罪人であると判断してしまったのです。ユダヤ教の枠組みを外れていると、社会を動乱させると。

 律法学者やファリサイ派の人々は明確に直接イエス様から批判されました。「お前たちには命がない」と。彼らは「そんな人間を生かしておくわけにはいけない」と考えるようになってしまったのです。

 

 弟子の一人ユダにも、このお方がメシアであるようには見えなかったということでしょう。だから銀貨30枚で売り飛ばしてしまったわけです。

 売り飛ばしてしまっても構わないと思ったその人に、宇宙の価値の中心があったわけですよね。驚くべき逆説というか、ここには無いと、この人はメシアではないと言い切った、そこにメシアがいる。

 

 それが私たちが経験するリアリティ。

 ここにはいないと思ったところにいるのです。

 

 ということは、驚くべきところに主イエスの出現を期待できるというか、主イエスがどのように私たちにかかわってくださるのか、予測は全くできないということです。

 しかし、主は聖書を通して私たちに約束と信頼の言葉をくださっています。その言葉を信じるのか否か。信じるならば、その通りに主はやがて現れてくださる。

 聖書の記述の通りに、かつて主は現れてくださったのですから。しかし、人間の予測を遥かに越えた予測できない小さな一人の人として来られました。

 

 だから、聖書を読んでいていつも思うことなのですが、いかに自分の視点を捨てて、主が与えてくださる聖書を通して開かれる視点に立つのか。主が伴ってくださる視点に。すなわち礼拝者として自分が低く低く立つのかということが重要であるのです。

 

 そうでなければ、主の視点というのは見えてこないし、自分の視点に立って、自分の視点で物事を考えていくと悲劇に向かっていくということがわかるのです。主は奇跡を常に起こそうとしてくださっているのです。

 皆さま、生まれてこのかた、主によって起こされた奇跡の中を生かされているのであって、何か私たちが望んでその希望が通るような形で物事が進んでいるというわけではないことがわかると思います。

 これは創造者を想定し、主を信じて、信じた視点から出来事をみるようになって、主の御業が見えるようになって開かれていくる視野だと思います。

 

 私は、主なる神を思うことのなかったその闇を良く知っていますので、そこからどうやって抜け出すのかばかりを考えています。

 主を思うことのない闇の中にあるときには、物が見えなくなるというか、自分の力を手放すこともできませんし、自分が見ている視点から離れることもできませんから、私の力の中で、私の見える視点で、私ができることでというような感じになるのです。闇に落ちていくのです。

 

 そうなると、どうなるかというと、基本的にものごとを悲観します。悲観して、恐れた視点から、恐れにもとずいた、主がおられるということが思われていない視点のなかで物事を考え、さらに暗い暗い闇の中に落ちていくということを経験する。

 ちょうどイスラエルの民がカデシュ・バルネア(申命記1章)という場所で、約束の地を前にして怖気づいてしまったように。

 約束の言葉を信じた、ヨシュアとカレブだけは、その地に入って行くことを望みましたが、それ以外の人たちは、目に見えることがらに恐れをなして、目の前にある巨大に見える城壁と、その土地にいる民が巨人族のように見えたという恐れにとらわれて「主が命じておられることをすべて無視」したのです。

 

 主の御前にある私たち。信仰の民にとって大事なことはなんでしょうか。

 

 それは、「主がどのようなお方であるかということだけ!」です。

 

 主は全能者。主は千里眼。主はすべてを見ておられる。それゆえに、私たちの心の中にあることがらこそが大切。本当に主を恐れているのか。それ以外の何かを恐れて、それ以外の何かをもとにものごとを考えていないか。人間の判断も思いも、すべて偏っている。思い込みにもとづいている。恐ろしいことに恐れにもとずいていることにさえ気づいていない。

 自分で自分のことが見えていないというのが我々なのです。

 

 ユダ。このユダが、主の御前に帰ったら。ユダは裏切者の筆頭としてあげられていますが、冷静に見ればペトロの裏切りと変わらないでしょう。

 先週みましたよね。ペトロは主イエスを呪い、誓いながら知らないと言ったのです。しかし、ユダとペトロは違います。

 ペトロは自分の思い込みを主イエスの前で捨てたのです。

 自分は本当は主イエスの前に最大の忠誠心をささげて天の国で一番偉い者と言われたかったのですよね。しかし、彼は自分が一番愚かなものであること、最も小さきものであることを知ったのです。

 

 そのことを知ったペトロを、永遠に続く、またこのアジアの私たちにまで届く、その心で、その純真さで満たし、私たちもこのペトロの真実さを通して真実に至れるようにしてくださったのです。

 

 一番最悪のところから、奇跡が起こるのです。

 

 一番小さなところからでも出来事が起こる。

 

 この小さな私に主イエスは注目しておられる。

 

 この私がすべてを捨てて、主イエスにお従いしたいと思い、本当にすべてを捨てて、

 自分の弱さを認めたところから、主の業が起こる!

 

 あぁ、なんと主はすばらしいお方なのでしょうか。安心して、力を手放しましょう。

 

 ユダのように自分を裁くのをやめましょう。人を裁くのをやめましょう。イエス様を傷つけるのをやめましょう。

 ペトロのように、自分の弱さを知って、命の芽生えを体験させていただきましょう。アーメン。