2022年9月25日 主日礼拝説教 「平和は神の一声から」創世記1:36 詩編23:6

 

 

 神様のご性質、神様のご人格(ご神格)、神様ご自身が、私を追いかけてくる。

 この感覚に至ることができると、、、それはそれは幸いです!

 

 私は、2021年の4月に金沢の地に来てから、葬儀の場面において、そのような感覚に至らしめられています。

 

 最後の最後の瞬間に、ご親族の皆様がいかに故人のことを大切にされていたのか。それが言葉となって出てきてしまう。「お父さん、ありがとう。」とか「愛しているよ」とか、火葬場の炉の扉が閉まるその寸前でおっしゃる方が何人もいて、感動させられました。

 

 主の心がここに通っている、と認識できるからです。

 恥ずかしながら、私は父の葬儀の時に言えませんでした。愚かですね。

 しかし、この教会の方々はそれをおっしゃられる。

 心から尊敬いたします。

 

 本当に人間のこころは曲がっていますね。大切にしなければいけないことはわかっているのに、素直に、ストレートに生きることができません。

 

 しかし、あとになってからでも。目を凝らして本当に大切なこと、神様が価値の価値、中心であるということを見出そうとするならば、だんだんと見えてきます。

 

 

 あの時こうしておけば良かったという後悔であっても良いのです。それが未来をつくります。

 少なくとも、神様のご愛を見ようとするのであれば、そこに主のご愛が満ちているということを見出すことができるようになっていきます。今までは見ていなかったのです。

 

 神様がどのようなお方であるかを見ようとすれば、神様のこころはいつまでもいつまでも追いかけてくることに気づきます。葬儀の場面においても追いかけてきます。

 

 今まで、自分の葬儀にどうまわりの人たちが反応してくれるか。そんなことを恐れていました。やっぱり視点がなんかズレてしまっているのです。

 

 「いやいや、こんな冷たいオレのことを誰も思ってくれないんじゃないか」とか、「いやぁ、でも家族だけはちょっとはオレのことを思ってくれるんじゃないか」とか。

 まぁ、考えれば考えるほど不安になるんですよ。その不安をもとにして、いま生きている間になんとか善行をつまねばならんとかですね。

 善行は大事です。でも、そんな善人に急になれませんから、不安がぬぐえません。

 

 しかし、イスラエルの信仰の王、ダビデの心を知るとこころが暖かくなり、解き放たれます!

 「神様は追いかけて来てくださる」と。

 

 聖書を通して見ようと思えば見えてくる内容。信じ受け入れるならば、我々が拒否しなければ必ず見てくる今までは見ていなかった世界があります。

 

 神の心が私を追いかけてくる。

 このことだけ、私の葬儀の時に、私を通して皆が味わってくだされば良い。

 

 「あぁ、あの人は本当に憐れなほど愚かでしたね。でも、神様が祝福してくださいましたよね。」

 みんながそれを確認してくれれば良い。あぁ、なんとクリスチャンは喜びに満ちているのでしょうか。力を捨てることができます。気負いを捨てることができます。

 

 重要なこと。今日はこれだけを知っていただければ良いというようなことを申し上げます。これを知ってください。

 神は人間を創造され、ご自分に似せて作られた人間をご覧になられて、「極めて良かった」とおっしゃられたということです。

 良かったというのは、「満足した」とか「感動した」とかいう言葉にも翻訳することができます。神は私を見て、満足し、感動してくださっている。この主の思いがすべてに先だってあるということ。これが私たち人類が皆知らなければならないことです。

 

 立ち帰らなければならないポイントはここです。でも、堕落したので、神の思いがわからなくなったんです。

 神が感動されたところから物事が起こります。

 私たちは神の感動によって生かされている。良い、感動した、満足した。私に向けられているその主の御声を聞くところからはじめなければなりません。

 

 物事が生み出されるときって、感動がありますよね。

 お母さんが子どもを生み出すこと。もうこれは最たるものであると思います。神の命の創造に肉薄するというか、神の心に触れる感動体験です。どういうメカニズムなのでしょう。不思議なことに、生み出されて、ちゃんと育ちはじめ、驚くべきことに、私を乗り越えるまで大きく成長してしまう。それが子どもでありましょう。

 感動が溢れているとき、私たちの心はその一点に集中して、そのことにのめり込んでいきますよね。そこには、面白いとか、うれしいとか、そういう肯定的な心が溢れていきます。お母さんってめちゃくちゃ強いですが(力が強いということではなくて)、精神的な芯がはっきりとして、時に強烈だなあと思うものです。それも当然ですよね。命の感動を覚え、その中に生き、そこに心を集中させて。本当に大切なものを見ている。そういう生活が子育ての中で、否応なしにずっと続けられていくのですから。

 

 一日中何かに取り組むことができる感動を見出した人は幸いですよね。

 私も今も、新たに幸いを見出す途上にあるように思っています。聖書という最高に面白い、最高に感動するこの神の言葉に向き合ってその喜びが日々増していっているのを感じています。聖書の世界を知ったら喜びに関しては全体的に右肩あがりの成長しかないことを知ります。

 私は今まで、ほとんど物事を成し遂げたことがないのですが。やり遂げたことがないというか。途中で挫折ばかりしてきました。一つ、感動を起点にして物事を達成させたというか、やり遂げたという実感があることがあるのですが。

 それは何かというと、バスケットボールですね。と言っても、優勝したり、有名になったりとかではありません。ひっそりとバスケットに熱中していた時がありました。小学校6年生の時です。なぜ、何も成し遂げたことがないような私が、実感をもって成し遂げたと言えるのかというと。

 小学校の校庭で、校庭開放が終わる午後5時だったでしょうか。そこまで毎日毎日、雨が振らない限り、死ぬほどシュートを打ちまくっていた姿を、近くの文房具屋のおばちゃんが見て、「あいつはバスケットの世界で大成するんじゃないか」と本気で言っていたという話を聞きました。

 で、今思い起こすと、そうですね。自分でもそう思うんですよ。でも、悲しいことに中学に入ってやめちゃったんですよね。

 で、なんでそう思うかっていうと、私の中に記憶がありますよ。

 午後5時の終わりのその最後の校庭の鐘がなるその最後の瞬間までしつこくシュートを打ち続けていたんです。帰る瞬間まで遠くからシュートを売って後ろ髪ひかれて帰るというか、その最後のシュートの瞬間の記憶があるんですよ。そういう練習していれば、それを続けていけばですよ。文房具屋のおばちゃんが言ったようにどうにかなったかもしれませんね。

 私が何を目指していたのかというと、マイケル・ジョーダンのシュートです。あの柔らかい、ミドルシュート。スポンスポンとゴールに吸い込まれていくシュート。その美しさに魅了されて、それを再現したいって思ったんですよ。単純に感動したんです。

 

 感動が起点となって、物事が起こる。感動が起点となれば、そこに爆発力が与えられる。はっきりとそう言い切れると思いますね。

 

 私たちは聖書を読むことを許されたんです。私たちのことを見て、感動して、今もあきらめずに、わたしたちを四六時中追いかけ続けている、神の御姿が見えるようになる。そりゃ、神の恵みは追いかけてくるでしょうよ。だって、神は私たちの存在そのものに感動していらっしゃるのですから。私たちが心の中を本当に向けるべき方向に向けて、養分をしっかり受け止めるようになって、成長して、神の恵みがさらにわかるようになって。

 そこに私たちが心を傾向けてさらに喜びが満ちていく。そんなことになったら。神の喜びは驚くべきほどに爆発するであろうことが予測できますね。

 赤ちゃんを抱っこして、寝かしつけるためとか、落ち着けるためとかに肩をポンポンたたいてね、なだめますよね。そこからね、子どもが逆に返してくる瞬間ってあるでしょう。なんかね、子どものほうが逆に抱っこされてポンポンしてくる瞬間。あの瞬間って、もうこの子のために死んでもいいって思いますよね。

 

 私たちが神の心に気づいて、神の心を知って、その神の心に感動しているとき。同じことが起こっている。神の喜びが爆発しているのです。

 

 私は、牧師になりたてのころから、幸いなことに、説教の準備をしながら神様の心に感動して涙するという瞬間がたくさん与えられてきました。どうしようもない信仰生活なんですよ。本当になにやってたんだっていうここ20年だったんですよ。

 不徹底であり、傲慢であり、不遜で、心の中は非常に暴力的で。その私を回心させるために、主がお取り扱いをなされはじめて、毎日礼拝をささげるようになって、今は毎日なんか感動している感じなんです。でも、それは私が心を開くそのずっと前から、神様がその感動の瞬間をご準備くださり、説教準備の時に、私といっしょにいて、涙して感動してくださってということがずっとあったのです。

 

 ダビデ詩編を見ると、神様が良いと言ってくださったことと。「神様が約束の言葉を守られるという現実」が私を追いかけてくると祈っている祈りを見出すことができます。聖書を開くことができるかた、是非開いて見てくださいね。どう書いてあるかというと詩編23:6です。

 命あるかぎり 恵みと慈しみが私を追う。私は主の家に住もう日の続くかぎり。詩編23:6、旧約839)

 

 恵みと慈しみ。この言葉は聖書の中でたびたび繰り返される言葉です。恵みと書いてあるところは「トーブ」ってヘブライ語で書いてあります。これは創世記の初めの記事、神が世界を創造されて良しとされたという、その「良し」という言葉です。神様の善しです。それが追いかけてくるとダビデは告白しています。さらに、慈しみというのは、ヘブライ語で「ヘセド」と書いてあります。それは、神が約束を守れられるご愛という意味です。

 良いっておっしゃってくださる神の良さと、神の約束を守る誠実さが私をどこまでも追っかけてくるというのです。神様のご性質が私を追いかけてくる。親が子どもの姿に感動するように、そのように私をやさしく見守ってくださっている。

 

 イスラエルの王であったダビデは、息子から命を狙われることもありました。しかし、そんな最低最悪なこの世の終わり以上にいやなことを経験しても、神の心が追いかけてくると信じていました。

 

 神様は神様ご自身が約束されたことが、現実に起こるのだという証拠をもって追いかけてきてくださいます。

 だから、ダビデの周りには信仰による祝福があふれていた。信仰の王として今もイスラエルの人々が慕い続け、その子どものような人たちが溢れているのですね。聖書の詩編を好きな人はもうダビデの子どものようなもんでしょう。私もその一人です。

 聖書に描かれている主人公たち、主に従った僕たち。その僕たちは、皆。死ぬほどに祝福され続けていきました。神様に抱っこされて、神様の心に応えようとしていた。

 

 子どもが親をポンポンするように、羊が羊飼いの顔をしみじみと眺めて、その顔をなめるように。

 

 神様は私たちと共におられるって聖書に書いてあるから、そういう風に私はいつも説教してきたわけです。でも、どこかで、ほんとうにこの瞬間も、この瞬間も、いやまるで主が近くにいらっしゃらないような愚かな思いに満ちてしまって、好き放題やってしまうっていうことが多かったのです。

 その時は、この私たちに「良い」って言って、感動して、それゆえに、ずっと追っかけてこられる主のお姿というのが全然に見えていなくっていきます。だから、さらに好き放題に人に対してふるまうのです。そうすると祝福から落ちてしまいます。

 

 でも、聖書に向き合うところに帰ってくれば(帰ってくるだけでいいんです。そうすれば神がすべてを整えてくださいます)、私の内に語りかけてくださる主の御声を聞きます。主は私に対して喜んで、感動してくださって、どこまでも追いかけてこられて、トーブ(ヘブライ語で良い)と言ってくださり、ご自分がすでに約束してくださった神の言葉を私のところでも守ってくださるのだということを見せてくださるお方だという確信が強められていきます。

 

 神が私に感動してくださり、ご自分の言葉が本当であったんだって思い知れって、慈しみが示される出来事が起こされるって。そう語りかけてくださいます。イエス様の十字架の贖罪によって赦されて、全部犯してきた罪が無かったことにされて、神の民としてはじめることができるって。

 こんな、幸い。他にありません。

 

 神様が私たちを認めてくださり、良いって追っかけてきてくださって、ご自分が約束を守られる方であることを見せてくださるって。すべての期待感をここに置いて生きれるって。

 

 もう、他に何もいりません。

 

 本当の親のもとに帰れたんですから。

 

 皆様が、ダビデが受けたような祝福のすべてを受けることができますように。

 

 羊飼いがいるっていうところに常に立てば大丈夫です。牧草は与えられます、命の水に到達するしかその道はありません。

 主の一声を聞いて、ここから平和を構築する。その次元に立たせていただいたのです。応えたいと思います。アーメン。