2023年5月14日 主日礼拝説教  使徒言行録5:12~26 「福音を鎖につなぐことはできない」 石井和典

 

 奇跡はそこら中で起こっています。

 何よりの奇跡は、日本人である私たちがこのように礼拝をささげているということです。

 皆様は様々な仕方によって神様に特別にねんごろに時間をかけて導かれてきました。そのことに気づくことができる皆様のご存在が、この日本においていかに重要かと思います。

 

 ご自分において起こっている奇跡に気づいている民。その奇跡を愛する民に向かって証をしなければならない。そのような使命を担った皆様です。そこら中にある、主の導きという奇跡を見出せばよいのですから幸いです。

 

 私が白銀教会に赴任してから、皆さまと共に「インマヌエル(主は我々と共におられる)」を確認してまいりました。聖書を通して知り、またご自分の人生において確認し、聖書がまさに生きた言葉であることをこの金沢、石川の地で証をたてるのです。

 

 主がおられるということを信じる民の傍らでは、主がおられるという奇跡がリフレインされ続けます。私を通して誰かが、また「確かに主がおられる」ということを味わうことになります。

 

 初代教会の使徒たちのところにおいて、文字通り「ありえない奇跡」が起こり続けていました。

 癒されることのない病が癒されて、使徒たちが語っている主イエスの復活の力が本物であることが示されていきました。

 

 しかし、その中でも使徒たちの交わりに加わっていくものもいれば、そうではないものもいたことが記されていきます。

 イエス様の周りに集まった人たちも、弟子と呼ばれる人になっていく人もいれば、単なる群衆としか記されない人々がいました。

 どのように聞いたことを受け入れるかというのは、全く個人の自由です。ご自分の自由意思を用いて、自ら、主が語りたもうたことに反応していくのです。

 

 イエス様は、聞いたものがどのように受け止めるのかということを種まきの例えを用いて説明されました(マタイによる福音書13章)。

 

 道端にまかれた種。岩だらけのところにまかれた種。茨の中にまかれた種。良い土地にまかれた種。

 

 道端にまかれたというのは、サタンが御言葉をすぐに取り去ってしまう者のことです。

 岩らだけというのは、心が頑なで受け入れることができない人です。

 茨の中にというのは、この世の思い患いが邪魔して、御言葉が実らない人です。

 良い土地にまかれたというのは、100倍の実を結ぶ人のことです。

 

 使徒たちの姿を見れば、実りは100倍どころじゃないのがわかります。

 もっともっと無限大の広がりを見せますが、イエス様はあえてわかりやすく私たちにわかるように、「100倍という少な目の数字」でたとえを語られたことがわかります。

 

 神の言葉に対する態度により、実を実らすものとなるか、そうではないのかがパキッと割れていくということが記されていることです。

 

 使徒たちを陥れようとする者たちが現れました。それは本日の箇所には「大祭司」と「サドカイ派」と記されています。彼らは2000年前のユダヤ社会においては多数派です。ユダヤ教の体制よりの人です。ローマや権威に対してもその心を向ける人です。

 目の前の一人の人の命がどうなるのかということよりも、自分たちが所属している集団であるこのユダヤ教組織が守られることや、自分のポストが守られるかを言外に優先し、どうにもイエス様がおっしゃられた言葉が通らない人たちです。

 

 聖書の言葉に生きようとしたとき、この葛藤をどうしても感じざるを得ません。

 神の言葉であるイエス様を伝えようとしたときに、イエス様のことがすんなりと受け入れられて、そこに力を見出すところに至っていく人と、そうではない人がいます。

 

 いろいろと人間には邪魔が入ります。先ほども言ったように、サタンが聖書の御言葉の種を鳥がついばむように持っていかれてしまう人がいます。

 また芽を少し出したとしても、根が張るというところまで行かないので実を結ばない人。

 またこの世のことが心の中心にあり、どうにも信仰による花が咲かず、実らない人。

 

 だから、この何週間か強調してきていると思いますが。「悔い改めに至っているか」そうではないのかが非常に重要なわけです。自分の思いを一度捨てて、方向転換しているかどうかです。

 ペトロが説教を語り、そののちに、どうするべきですかと問いかける人たちに対して「悔い改めよ」と言ったということは、教会にとって究極的に重要な内容です。

 

 そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。使徒言行録2:38、新約212)

 

 悔い改めが不徹底であるがゆえに、実りがないということが起こります。

 そもそも神の前にまことの意味で立っていないという状態になるがゆえに力がないということになります。主が語られた「どこにいるのか」という創世記3章9節から語られる主の問いかけに向き合ってはいない人たちです。

 逆に言うと、「悔い改めに至った人たち」というのは、必然的に、使徒的な共同体を形作るということに100%なるということです。聖書を読んでいると本当に安心します。主がおっしゃられたことに向き合うのであれば、私など無能でかまわないだろうということがわかります。

 神の御前における悔い改めからスタートして、主の力が満ち溢れるのです。

 そこでは癒しが次々と起こり、人生が回復されていきます。それが使徒の共同体で起こっていたことであり、そうでないところで起こっていたことというのは、どういうことかというと。

 「妬みと怒りによる争い」です。

 だから「妬みと怒りによる争い」に人々はよく落ち込んでしまいますが、その時にはいち早く、「自分自身が悔い改めなければならない」ということに気づくことが大切です。

 

 2016年にイスラエル旅行に初めて行かせていただきました。大阪のぞみ教会の信徒の方々のご好意によって、費用もすべて出していただいていくことが許されました。おそらく費用を出してもらわなければ私は自分では行かなかったと思います。

 本当に不徹底、不従順、聖書を大事にしていなかったと今思うと思います。だって、聖書を真剣に読んで向き合っていれば、そりゃイスラエルエルサレムに行って、自分の目でその読んだ箇所を確認したいと思うのは当然だからです。

 しかし、そういう思いは2016年の私には非常に薄かった。。。全くないというわけではないですよ。それだったら牧師などしていないと思います。

 しかし、その思いの薄さは、聖書を全然自分の生活のために、毎日のひと時ひと時を聖書とともに歩んでそこから力をもらうことができていなかったということです。恥ずかしながら。。。

 今は、もう何が何でもどんなに費用が掛かっても、とにかく全財産はたいてもまず、イスラエルに行って聖書を読もうと思うようになりました。

 というのも、やはり主は特別な出会いをご準備くださるのです。

 ユダヤの民を見て、不思議にも悔い改めました。

 彼らは、本気で真剣に祈り続けている。その姿は当たり前の日常の姿。いつ行っても、どんなときも彼らは祈り続けている。

 しかし、私はと言えば、特に2016年以前の私は、礼拝のおいて、公の場において、「祈ってください」と求められるとき。食前の祈祷など習慣になっているとき。そんな時にしか、自ら祈っていませんでした。

 そんな本当は信じ切ってはいない自分の姿を、ダビデの墓で祈りづけているユダヤの民によって示されたのです。

 今回ダビデの墓を訪問させていただいたときには、ウルトラスーパーオーソドックスのユダヤ人たちが、手をつないで肩を組んで、楽しそうに歌って、祈っていました。

 また、その姿からもインスピレーションを与えられました。

 「あなたが受けた喜びをすべての民と肩を組んで分かち合え」と言われた気がしました。

 マリアの受胎告知教会においても思わされましたが、神様が出会ってくださる場所というのは日常の一コマにおいてです。というのもマリアが天使ガブリエルと出会った場所というのは井戸と言われています。

 受胎告知教会の中心にあるのは、井戸でした。

 このことも非常に象徴的なメッセージでありました。

 私が生活するこの日常において主は語りかけてくださるのだということです。

 

 イスラエル旅行において「私こそが悔い改めなければならない」というペトロが語った悔い改めの福音を私は改めて受け止めたというのがここ6年の歩みでした。

 

 しかし、それは2000年前の使徒たちの歩みとつながっています。ペトロの説教とつながっています。だから、信じることができます。この私というちいさなところからまた使徒的な共同体は作られるのだと。2000年前の聖書の世界とこの私とがつながり、命の泉がながれはじめると。それは私が語ったことではなく、聖書が伝える内容です。

 

 

 使徒たちを牢に入れる者が現れてきました。

 

 一人の人の回復とよみがえりのために、その命を使う人と、そうではないなにがしかの自分の思いに心を使う人たち。そんな風にどうしてもわかれてしまうのですね。

 

 我々は本当に気をつけねばなりません。どこから出てきた言葉であるのかということを見ることができるようにならないといけません。

 主の口から出た言葉にもとづいて行動しているのか、自分の心から出たことで行動したり教えたりしているのか。エレミヤ書の中にこのように記されています。

 

 万軍の主はこう言われる。あなたがたに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らが語るのは自分の心の幻であって主の口から出たものではない。エレミヤ書23:16、旧約1205)

 

 「自分の心の幻」、自分のこころから出たことを語るとき、それは神の力を証するものとはならず、教会が力ある働きができるようにはならないということです。

 

 かたや癒しの業が行われて、人々が喜びに満ちていく、その方向性に進む使徒たちと、その使徒たちに敵愾心を燃やして、争いを挑んでいくものたち。

 何が狂気なのかということは、客観的に聖書を読んでいれば簡単に見えてきます。

 しかし、どうでしょう。自分のことになると人はとたんに見えなくなります。そこには大義があり、思いもあり、怒りもあり、自分の思いが満載だから。茨がまさに心をふさいでいるので、何にも見えなくなって、争いに走って、そのこと自体が誤っているのかどうかなどもうどうでもよくなっている。そんな状態の人間ってそこら中に、いやこの私こそがそうなっているということが起こります。とりわけ人間関係においてそうです。

 聖書の言葉ってパワーがありますよね。自分がどこにいるのか本気で読めば気づかされる。神様に対してどんなスタンスをとってきたのか。

 種まきのたとえも、私たちの人生のいろんな場面を指し示しています。

 御言葉を聞いても、全然心にとどまらずに、なんかすぐにサタンにもっていかれてしまってパワーを発揮できないでいる状態。

 自分の思いや相手を責める思いとか、自分の心のかたくなさが邪魔して、全然御言葉が力を発揮できない状態。いろんな世の考え方が入ってきて、御言葉よりも世の考え方の方が先で、どうにも神を信じるに至れない状態。

 

 使徒たちの前で、使徒たちを捕えていくサドカイ派や大祭司の集団っていうのは、神の言葉よりも、自分たちの心の頑なさや、その当時の人々の考え方や常識、こうあるべし、そういったことが先に来てしまって本当に大事な一人の人の救いということがどこかにいってしまっている状態でありました。

 目の前で、100倍の実りの出来事が使徒を通して行われ、私たちのところまで、100倍どころじゃない祝福の力が届くのですが、その100倍の実りの前に、死の力にまどわされて落ちていく人々。その命の力にあずかれない人々。

 

 使徒たちを牢に入れ妨害します。

 

 しかし、使徒たちの姿をみると、そのような力は一ミリも恐れる必要はないことがわかります。

 神様の御業のために、牢につながれようが、その鎖は引きちぎられるからです。神の御心がすべてに先だって実現していく。それがこの世界です。

 神の言葉が実現していくから、この世界が存在しているし、私たち人間がいつでもどんな時でも愛を求めるという、この神の秩序の中に入れられ、それは信仰あるなしにかかわらず、皆が愛を求め、愛の歌を歌っている。

 それはすなわち、神の秩序の中で、神ご自身を求め続けているということに他ならない。

 神が創造したもうた世界で、最終的に実現するのは、神のこころです。

 

 だから、いくら牢につながれようが、鎖につながれようが、手かせ足かせをつけられようが、妨害されようが、全く問題にはなりません。

 

 むしろ、それによって、神への愛は火に油を注がれたように燃え上っていきます。

 

 神によって方向性が正されるって、痛快です。

 

 使徒たちを見れば、何があっても、それが良い方向に用いられるのがわかります。

 

 使徒の筆頭のペトロは逆さ十字架にかけられたと言われていますが、そのペトロの処刑の出来事を通しても、いまだ教会は力づけられている。

 

 ガリラヤ湖湖畔のペトロ召命教会に2000年後の人々がどれだけ沢山集められていることでしょうか。特にカトリックの人たちはペトロを「パパ」と言って慕っている。

 死をも乗り越える復活の力がここにあります。

 

 大丈夫。主のこころが実現する。試練があっても。アーメン。