皆さんに食べ物を与える。これが私の牧師としての使命です。イエス様は皆様のことを羊とおっしゃられています。ですから、羊である人間に、牧草と水を与える。食べ物のあるところに皆さんが到達できるように準備をし続けて、あらゆる危機から皆様を逃れさせる。
それは実際に肉体の食べ物を与えるという形で教会が、民に仕えるという形をとる場合もありますが。それ以上に、まことのたましいの食べ物である「神の言葉(聖書)」に到達できるように。ということが私の使命の中心であります。ただ到達できるだけじゃなくて、ちゃんと適切な量を食べて、機能し、命にあふれて、生活が変わるというところまで導きます。それが牧師です。
そのモデルはイエス様です。イエス様は、弟子たちに食べ物をお与えになられました。十字架にかけられて殺されて、復活なさってまずされるのは、弟子たちが食べることができるようにということでありました。
いつもどこでも変わらずに大事なことは、毎日毎日私たちが取り組んでいる基本的なことです。
「何を食べるのか」ということです。
復活の主が、ご復活されてまず、「弟子にごはんを与えた」というお姿からわかります。
食べなければいけないものを食べないといけないのです。
このことを忘れないでください。
私たち教会がまずすべきことは、食べていない人に食べ物を与えるということです。
いろいろ問題が起こってきたりしますが、それは食べるべきものを食べていなくて、枯渇して、飢え渇いて、渇望があるから、癒されていないから、ワーキャーなって炎上するって皆さん気づいていますよね。
ちゃんと神の言葉を食べるということに比べたら、他のことはとりあえず放置しておいてもいいぐらいです。
イエス様はあるときにこのようにおっしゃられました。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。(マタイによる福音書6:25、26、新約10)
だから、何よりも誰よりも、「神様ご自身が、民のことを心配して食べるものをご準備くださっている」ということなのです。
イエス様は、復活されて現れてくださったときに、真っ先に弟子たちにこの基本姿勢をおしめしくださるのです。だから「思い煩うな」なのです。
イエス様の基本姿勢、神様の基本姿勢。
そこからへんがちゃんと腑に落ちると、ものすごい平安に満たされます。
何を食べようかと思って思い悩む必要がないことを知ります。食べ物についていろいろ考えますし、改善をはかるために努力します。しかし、私たちが考えるよりももっと先に心配してくださっているのが、天の父なる神様であるということなのです。
その主のお姿を一心に見つめると、主がお働きくださる姿がだんだんと見えてきて、安心感に満たされていくのです。
最強に効き目のある、エネルギーをいただける神の言葉は、実は自分が気付こうとすれば、すぐ目の前にいつも提示され続けています。
それが私たちの人生の歩みです。でも、それを通りすぎるというのも私たちの歩みなのです。
神がすでにご準備してくださっていることが身の回りにたくさんあるのだということです。
それに気づくことが「食べる」ということですね。
神様ご本人がどのようなご性格であり、ご人格(ご神格)であられるのかを知って、主を知るということをもってエネルギーを得ていくのです。
エネルギーを得ることができなくなると堕落の一途をたどっていくということです。
それは先々週にもご一緒に確認しました。堕落ってなにか、滅びってなにか。ホセア書4章に記されていました。決定的に重要なことなので今一度確認したいと思います。
イスラエルの子らよ、主の言葉を聞け。この地に住む者を主は告発する。この地には真実も慈しみもなく神を知ることもないからだ。呪いと偽り、殺人と盗み、そして姦淫がはびこり流血に流血が続いている。それゆえ、この地は乾きすべてそこに住むものはしおれる。野の獣、空の鳥、ついには海の魚に至るまで絶え果てる。(ホセア書4:1~3、旧約1386)
神様がこのようなお方なのだと知ることは、エネルギーそのものです。癒しそのものです。創世記を早天礼拝で読んでいますが。創世記を見ると、主は癒しそのものであるとわかってきます。
イスラエルはたびたび問題の中に落とされますし、試練をうけます。彼らの罪の結果そのように問題が表出してきて大変になるのです。しかし、それでも神様は見守っておられて、必要な助けを与えられて、何年にもわたって神のご計画がありつづけます。
主だけは、イスラエルを諦めておられないことがわかります。
あのストーリーを見て、私などは正直はじめあきれてしまった。
彼にはいろいろ問題がありましたが。もうね、どうにもならないのが、子どもを偏り愛するという性格です。一番小さい子どもをいつも愛して。他の子どもたちと明らかに差をつけちゃうんです。それが問題で兄弟間の妬み、争いが起こりということが記されています。
その問題は一度ならず、何度も彼らの中で噴出してくるというか。ずっと、ヤコブはこの問題の渦中にあって自分ではどうにもできなかったのだということがわかるのです。
しかし、そのどうしようもない。何度言っても改めないというか。同じ問題で何十年もずっとひっかかりつづけるそのヤコブを神様は見捨てられないのです!!
超癒されます。
というか、私も同じですよ。一体いつまでおんなじ問題で立ち止まり続けるのですか。という感じですね。神様に感謝をささげることをおこたり、信仰が第一と言いながらも、自分の感情が第一であり、自分がやりたいことが第一であり、いつのまにか神様の思いを踏みにじって、自分の思いを実現させたいが真ん中にあるにもかかわらず、「これが神の御心だ」などと偽って。
そんな、問題でずっと前に進まずにいる。
しかしですよ。神は見捨てられてない!
私の前から聖書は取り上げられていない。私が神の心に聞こうとしたら、神は私の心にものすごく響く言葉を毎朝くださるようになる。そして、私が日々生まれ変わらせられているということを実感をもって証できるようにしてくださるのです。
本日の箇所はペトロに対してイエス様がお話くださる箇所ですよね。ペトロというのは、有名なのが三度イエス様のことを知らないと言ってしまったという記事です。
マイナスな方向の記事ですし、それはこれから後一生彼のトラウマになるような出来事なんですよ。十字架におかかりになられ、処刑される前の晩に明確に三度も、完全にキリストを裏切ったということですからね。
ありえないぐらいに彼の心を引き裂くようなトラウマな出来事です。
しかし。
イエス様は三度、「私を愛しているのか」と聞きなおしてくださるわけです。
もう、再起不能、神の心を全く踏みにじった。もうだめだ、自分こそ裏切りもの。最低最悪だ。そのように自分のことを責め続けてもおかしくない出来事だと思います。
しかし、ペトロにとってはそういうストーリーとはなっていません。むしろ、自分が最悪だと知るのではなくて、キリストが赦しのお方であることを知るストーリーとなるのです。
主は、トラウマそのものに切り込んでいかれて、ご自分の姿をお見せくださり、癒しの現場としてくださるのです。
キリストは赦すために、あえて、その痛みの痛みに触れ、そこを赦しているんだと触れてくださるのですね。
痛い痛いうずきまくっている、その痛みによって暴れまわって、自分だけじゃなくて周りの人々を苦しめている。しかし、そこが癒しの現場なのです。
このことを赦していただけたら、もう他になにも必要ない。
それほどに、人生のすべてのすべてをかけるような重要問題。
それがペトロの三度の裏切りだったと思いますよ。
しかし、キリストは赦してくださると宣言されるのです。
三度、聞きなおすという、ペトロには絶対的にわかる方法で。
この痛んでいる傷に主は触れてくださるんだと明確にしめしてくださる。
天におられる先輩方。本当にたくさんの問題を持っておられたはずです。
失礼かもしれませんが(笑。
私たちと1ミリも変わらない人間なのですから。
しかし、そのすべての問題に主イエスは触れてくださったはず。そのような語りかけが次々と起こっていたはず。キリストだけは、このお一人お一人が立ち帰って神のものとして歩むその道をあきらめておられなかった。
そして、本人には決定的に、この私の傷にふれてくださったのはこのことであるというような。
三度裏切ったペトロに対して、三度「私を愛するのか」と聞かれるような、その人にしかわからない方法で赦しを語りかけてくださっていたはずです。
私には明確に「この人は神の御心を踏みにじっているから裁かれるべきだ」とはっきりと思って心の中で殺してしまった人がいます。それはそれは大きなトラウマです。
まさか、自分が人を心の中で殺すなどと。牧師ですから、絶対的に人を生かし、はじめに言ったように食べ物を羊に提供し続けて、危機が訪れたら、カッコよく身を呈して自分がボロボロになって羊を救うものだと思っていました。
しかし、自分はそんな牧者ではなかった。
牧師となって、イエス様の敵、ファリサイ派や律法学者でしかない自分を見ることになったのです。
特に、自分が聖書に立ち帰って熱心になればなるほどに、心の中で誰かを殺す自分を見出すことが多くなってしまった。
聖書に出てくる問題を抱えた弟子たち。このような一人一人を「やぁ、私はこういう失敗しないようにね」なんて、、、自分は少なくともファリサイ派ではないよねと思っていました。
「律法学者やレビ人のように人を裁く人ではなく、善きサマリア人のように周りになんと言われようと人を先入観でみずにとにかく助けて命を与える人だよね」と思い込もうとしていたのですが。
実際に、自分の人生の霊的な目に見えない現実が見えるようになって、自分自身の心の中を俯瞰して静かに見てみると。
自分の自尊心を守るために、どれだけ多くの人を心の中で自分の好きなように踏みにじって自分の存在を確保しようとしてきたことか。
一事が万事です。
私の心のさもしさが最も良く見えるのが、高校受験の時の志望校の決め方です。
とにかく偏差値が高いところ。あとはどうでもいい。それは人に自慢するため。なぜ勉強するのか、自分が人より優れていることを証明し、人をさげすむため。
聖書の中のどの人物とも比較にならないぐらいに、最低最悪な自分が見えてきてしまいますが。
しかし、それゆえに、主はこのゴミのように悪臭を放つ私の心に触れてくださっているのだと思わされます。くずの中のくず、ゴミの中のゴミのような私を、主イエスは「宝としてくださる」と宣言されている。それが神の言葉。
どんなことがあっても、何があっても癒される。
どんな部分も癒される。
こころを開いて、キリストのところに来さえすれば。
先達たち、素晴らしい方々ですね。
しかし、問題もたくさんあったでしょう。しかし、その問題にこそ触れるキリスト。
彼らの傷はすべて癒されて、癒しの中の癒しに今憩っておられる。
信仰の目をもってその癒しを見て、癒しから癒し。
癒しそのものである主に従って歩みをすすめたい。
私自身が癒されたものであるということを、この地域の方々と味わい、誰かが復活するということがここから起こりますように。アーメン。