聖霊が注がれると何が起こるのでしょうか。
御言葉に対する理解力が深められるということが、ペトロの姿を見て下さればわかります。
先週も確認しました。
ヨエル書という昔に書かれた預言の書が(聖書が)聞きなおされています。
ペトロの時代から考えるとヨエル書の時代というのは800年から300年ぐらい前に書かれたものではないかと予測できるのですが。大昔の預言の言葉が、自分自身において確信される。
まさに、今ここで起こったこと。キリストにおいて今ここで起こった出来事として、受け止めなおされているのです。
聖霊が注がれると御言葉が光を放ちます。
あなたの言葉は私の足の灯 私の道の光。(詩編119:105、旧約947)
闇の中を歩む民にとってその灯は決定的に重要なものであり。「決め手」です。
私の人生の只中で、最も力ある「決め手」として響きはじめる。言い換えると、食べ物となり、水になっていく。
命の命となる。
聖霊が注がれてそれが光を放っている状態と、そうではない状態というのは全然違います。何より、光を放っていないと実際のパワーとならないし、生活を変えません。
非常なるダイナミックな変化が起こされます。それが聖霊降臨の時に起こった、デュナミスの力です。
イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」(使徒言行録1:7、8、新約209)
力を受けると記されていますが。これがダイナミックな変化を生み出す力です。ダイナマイトの語源となるデュナミスです。
ガス給湯器が、たね火のままか、それとも最大出力で燃え始めるのか。
全然違います。
クリスチャンのなかで、こういう状況が展開されているのだということを私は痛いほどに味わってきました。
ずっと種火のまま。自分の人生を変革させる力となっていない。最大出力どころか、なんも変わらんと。
そういう状態ってどんな状態かっていうと、主からいただいた御言葉が自分の内側で強く響かない状態です。
1聞いて100悟るどころか、100聞いても、一つも残らない。全部素通り。。。
なぜ、こんな状態が展開されがちなのでしょうか。それは基本の基本に立ち帰らないからです。
極端な言い方ですが。主に立ち帰るためには、私たちがはじめのはじめに出会うであろうマタイ福音書1章で十分なんです。
基本の基本。はじめのはじめ。そこで語られていることを受け止めていれば、聖霊の炎が激しく燃え始める。それは何か。「インマヌエル」です。「主が我々と共におられる」です。
何十年も昔から語られてきて、踏み固められてきた、先人の知恵がこもった言葉というのは、私たちも学びの段階とか、訓練の最初の最初の日とかに聞くんです。
でも、最初は何言っているか意味がわからないというか、受け止めることができないんです。その含蓄の深さがわからない。大体同じですよね、どの業界でも、どんな分野でも入門書のはじめのはじめの巻頭言が大事だったりしますね。
だから、基本の基本が大事だし。その基本の基本を聞き逃したり、二枚舌にというか、聞いているだけで、全然受け止めていないということが起こっている。
私は自分の人生が神様がともなってくださる人生であることを発見するために、毎日毎朝、毎晩。主への感謝を三つノートに記すという生活をはじめました。これで、よくわかりましたよ。
自分が全然インマヌエル(主が我々と共におられる)など信じていなかったのだということをです。
感謝を目を凝らしてみようとしないと見えてこない。すべてが主からいただいたもので感謝だ、などと口では言っていながらも、感謝ということを考えるときにはたと立ち止まるしかない。感謝なんかあるかなと。
しかし、感謝するために立ち止まっていると、いくらでも発見できます。
インマヌエルは確かに私のところで、約束の民のところで守られていることを、私自身の出来事として思うようになるわけです。するとすべての出来事において、主の御手がという発想に少しづつなる。そこではじめて気づく。「自分こそが、蛇のような、サタンのような二枚舌であった」ということ。
こんな情報、といってもこれこそが宝なのですが。
これは、私が神学校に入る前から知らされていましたよ。聖霊がぼわっと燃えていなければというような語りも、私は神学校に入る前から何度も聞いていますよ。しかし、それが我が事として受け止められて、私の人生を動かすドライブとなるには、時間が必要でした。
弟子たちやユダヤの人たちが。
この私が十字架にキリストを架けたのだと認めることができるまでには時間が必要でした。
私こそが、キリストの前で「十字架にかけろ十字架にかけろ」と主の命をあやめてしまうものであり。イエス様の言葉によれば、何人もの人々を、私が裁き、心の中で、殺すような、十字架にかけるようなものであったこと。
それをあの弟子と同じように認めるに至るためにはやはりプロセスがどうしても必要です。
あのペトロのように、カイアファの官邸で三度裏切った自分を認めて、立ち直るためには、三度イエス様に「私の羊を飼いなさい」と言い直していただかないと、気づけない自分がおるのです。
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。(ヨハネによる福音書21:17、新約207)
この記事からよくわかってくるのですが。
私たちは本当に主によって手取り足取り、一つ一つ示していただかないと気づけない。何十回、何百回、何千回同じことを言っていただかないと気づけない。
大切なことに気づけていっているということは、逆にいえば、この主からの手取り足取りというプロセスを経験しているということなのです。
私は信仰生活は2001年に洗礼を受けていますから、23年ぐらいです。この私がいまあらためて気づいていることは、大抵、信仰生活一日目で心の中でわかっていたことです。自分で思いますよ。「あほすぎて話にならない」と。しかし、これこそが信仰者の現実じゃないですか。だから、力がないわけです。
律法を知らない人たちの力をかりて、不義を行う。
それこそがユダヤの中枢の人々がしてしまったこと。聖書をよくわかっていて、義を行うはずの人たちこそが、不義をおこなったということ。それは遠い昔の2000年前の、ユダヤ教中枢部の愚かな人々がしたことということではなくて。私たちが普段の生活の小さな一コマに、小さなキリストがそこら中におられるわけじゃないですか。
キリストの似姿が。本当に大事な核の情報に触れることができていて、聖書を知っていて。この小さなものの一人にしたことは私にしたことなのである。というイエス様の言葉を知っておりながら。
「この人は違う」とでも言うかのように、キリストの御言葉が適用されない場所をつくり。敵を作る。それゆえ、私こそがキリストを十字架にかけてきたこと。
それがまさに、2000年前のユダヤ教の中枢部ではなくて、あの三度裏切ったペトロではなくて、あの蜘蛛の子を散らすように逃げていった弟子たちの共同体ではなくて。
この私こそが、キリストを徹底的に裏切り続けているのだということを認めたときに。力が湧いてくるのです。赦されて、赦されて、死ぬほど赦されているから今がある。
それは、すべてのすべてに主がまことにインマヌエルだとの自覚に立つ。
キリストの十字架の血潮が私たちの内側で深く味われ。種火状態の聖霊の炎が、自分の事柄として輝き始めるわけですよ。
だから、力あるクリスチャンの姿って。どんな人よりも謙遜です。
モーセもそうでしたが、聖霊を注がれた人の姿って「この世の誰よりも謙遜」とまで言われるほどに、主に対する姿勢がすべてのところににじみ出てくるのです。
それは先ほども言いましたが、「インマヌエル」を確信しているからです。
聖書に書かれている言葉が自分のところで起こっていると確信しているからです。
だから、パワーとなって自分に響くのです。
パワーを自覚すると共に、自分がいかに愚かであるかに気づいている、そういう人ですよ。
聖霊による洞察力ってすごいですよね。ペトロも本日の個所のところで引用していますが。詩編が引用されています。詩編は多くがダビデの詩です。復活を指し示す言葉として詩編が引用されている。
イエス様を見ていなくても、復活を信じてしまう。それがダビデでした。
御言葉が自分の内側で鋭く響いているから、聖霊が与えられているから、こういう視野に立てるのです。
ダビデはもちろん、時代的にキリストを見ることができません。が、ペトロはキリストの復活とダビデの永遠の王座の約束が結びついていくのだと理解しています。
ダビデはイエス様の復活の姿を見ていないながら、すでに復活について語っているではないかという指摘がペトロによってなされている。それが本日の個所です。
やはりここでも、ガチっ、ガチって、預言の言葉と今現在起こっていることと、これから起こるであろうことが、連結してきて、力の連動ということが起こって行くのです。古代からの聖霊の力が我がうちで力を持ち始めるのです。ダビデの信仰の言葉がよみがえってくるわけです。
信仰っていうのは背骨ですね。この背骨に神の霊が加わって、全体に連動性が生まれてくると、古代からの神の言葉のつながりというものが見えてくる。そして、ペトロの口をかりて、ダビデが雄弁に語りはじめる。
私たちにとっては、私の口を通して、このペトロが雄弁に語り始めるということが起こる。
ペトロが証しようとしていた。
キリストの力が、死者のよみがえりの力が私の内側にも与えらるのだと信じる者たちが起こされる。
神の霊を受けて、神の心を受け取って、無視してきてしまった主の御業。インマヌエルを発見して、自分における復活の命を心底信じて。つねに、いつどこにでも主がおられると信じて。ペトロが語った言葉を自分の言葉として、私たちの内側に力が満ちて。この力によって人を復活させたいと願います。アーメン。