2023年2月12日 主日礼拝説教 使徒言行録1:1~11 「地の果てに至る証人」

 教会が伝えている内容は福音と呼ばれます。福音というのは、喜ばしい知らせと言い換えることができます。どのような喜ばしい知らせなのかというと、それはもとの言葉であるギリシャ語にさかのぼればユーアンゲリオンと記されています。「戦勝報告」という意味です。勝ったという知らせです。何に勝ったのでしょうか。それは神の国において勝ったのです。だから神の国の福音というふうにも言われます。では、神の国とはなんでしょうか。それはギリシャ語でバシレイアトゥーセウーと記されていますので、神の王国という意味です。

 神の王国がなったという勝利の報告。これが福音ということになります。

 

 王国というのは支配があるということです。神様のご支配、統治があって、その統治の中で主の祝福を目いっぱいに受け取っていく。そのような祝福された民としての歩みがはじめられたということです。その福音の知らせは、私たちの心の内側にまず与えられ、私たちの内側で命の泉のように命が広がって行って、全身全霊を通して、人生の隅々にいたるまで、主のご支配が味わわれるということです。 

 主のご支配というのは言い換えると主が共におられるという、主のご臨在であり、主がおられるところには、主の御業が顕現します。主ご自身がおられるということがわかるようになります。主がおられるということがわかるようになると、それは人々に広まって自然と伝道されるということが起こりますし。

 本人にとってみれば、主がおられて主の御業がなされるのですから、そこには喜びしかないという状態になります。

 

 だから、聖書はたびたび「喜べ、喜べ、喜べ」と命じるわけです。それは主の御業が実はあなたとともにあるのだよということを発見する歩みをはじめることができるからです。環境や状況にはもはや左右されません。

 最低最悪の現場。例えば使徒パウロのように無実の罪で投獄されていても、その場所が喜びの現場となります。

 孤独感は癒されます。不足感はいやされます。一人ではないことがわかるようになり、充足があたえられる。しかも、その充足というのは、シャロームという言葉で表されるような、平安や平和として訪れることになります。あの人を見ていると不思議と心に安らぎがやってくると人々は私たちのことを評価してくださるようになるのです。

 

 だから、「神の国の福音」「神の王国の戦勝報告」であるわけです。戦勝報告が私たちの体を通してたからかに宣言されるというわけです。

 

 この大きな人生の変化の中にしっかり立つというスタンスを得ると人生が全部変わっていきます。

 

 見える世界が変わってしまいます。

 

 聖書に記されている内容を受け入れ、咀嚼し、味わい、それが内側で定着するように願っていく人は、確実に心の内側に革命的な、コペルニクス的な回転という回心が起こります。

 今まで見ていた自分の視点の愚かさに気づき、癒されるということを経験なさいます。

 不思議です。人間ってものの見方が変化すると、人生全部変わります。

 そういう霊的な、精神的な生き物なのです。

 

 使徒言行録というのは、そのように福音によって変化させられたはじめの弟子である使徒たちの姿が描かれていて、非常にわかりやすく教会の歩むべき道を指し示す内容となっています。私たちにはすでに道しるべが与えられている。何を求め、実際に与えられ、主の道が整えられていくのかがよくわかる。それが使徒言行録であります。

 

 まず、はじめに、テオフィロ様と書かれていることが、私たちへの大きなメッセージです。この言葉によって、2000年前のことを2000年後の私たちが私への語りかけとして聞かなければならない言葉であることがわかります。

 テオフィロっていうのは、固有名詞のてい、名前のていでここに記されています。で、確かに昔の書物の残し方として、偉い人への献呈という形での書籍の残し方というスタイルがありました。現代も、そのような文化というのが残っていますよね。誰かへの感謝としてとか、この人にこの本をささぐとか記されていますね。で、テオフィロっていう偉い人が実際にいたのかっていう話なんですが。どうなんでしょう。いたのかもしれません。しかし、この「テオフィロ」という言葉から見えてくるのは、この言葉の意味です。それは「神を愛するもの」という意味のギリシャ語なんですよね。「セオス」「神」+「フィリア」「愛」です。

 

 神を愛するものたちすべてにこれは語られ、人がどのように変化させられるのか、その道しるべがここに記されているということになります。イエス様が復活のあとに弟子たちに現れて教えてくださった内容は「神の国について話された」と記されています。

 神様のご支配がどのようなものであるのかということですね。実際にあなたの人生が主の御業によって満たされているということはどういうことかということを悟るようにという内容であったということです。

 主が次のように弟子たちに命じられたことも非常に示唆の富む内容であります。

 

 そして、食事を共にしているとき、彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。使徒言行録1:4、新約209)

 約束されたものというのは何かというと聖霊です。ヨハネによる福音書にこのように記されています。

 しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。ヨハネによる福音書14:26、新約193)

 このヨハネの文脈は、イエス様がこの世を去られて父のもとに引き上げられる時が来て、そのあと神の霊が注がれ、自分が神の子どもたちであるということが明らかにさせられ、勇気づけけられて、ということが記されて。主の霊に満ちている人のところで起こることはこうなるよということを主が教えてくださっています。それは、「主イエスが教えてくださった内容をことごとく思い起こす」ことになるということです。

 

 だから、これは白銀教会の様々な文章に私がたびたび引用している内容が実際に起こるよということです。

 詩編の1編ですけれども。

 主の教えを喜びとしその教えを昼も夜も唱える人。その人は流れのほとりに植えられた木のよう。

時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。詩編1:2、3、旧約820)

 神の言葉を昼も夜も口ずさむ人となるということが聖霊に満ちているということの具体的な内容の一つであるということがわかります。しかも詩編1においては、その人こそが流れのほとりに植えられた木であって、そこから実りが与えられるのであるということが記されています。

 

 その境地に至るためには、待たないといけない。待って静かにして祈っていないといけないんです。なぜなら、私たちの心は乱れているから、集中して祈りに向かう必要があります。そうでないと見えてきません。主のこころがわかりません。主のこころがわからない状態だと、それを受けいれていくことができません。

 しかし、待っていると、黙想していると主のこころを見分けることが許されて、主の心を受け入れることができるようにさせられていくのです。

 

 エルサレムを離れないで、礼拝の中心の場所ですよねエルサレムというのは、そこを離れないで静かにして、黙想していなさいということですよ。そうすると加速度的に大切なことを悟ることが許されていって、主の御心がわかるようになっていく。

 神様の言葉が骨身にしみて、その言葉が何度も反芻されるし、リマインドされるようになるのです。

 

 そのためには、「待たないといけない」のです。

 

 神の霊に満ちることが大事です。そうでないと、どうにもならないというのが人間ですね。

 神様に何を言われても、何度も何千回も同じこと言われたって、それを守ることができないのです。それが人間の偽らざる姿です。私も信仰生活の一日目に言われたような内容を改めて、「そうだったそうだった何と大切なことを私は忘れていたんだろうか」と毎日のように思い起こしています。

 

 聖霊が注がれて主の言葉に生きるようになった弟子たちにおいては、人間の弱さ、自分がすぐに主を忘れるというダメさ加減だけではなくて、力が内側から湧き出してくるということが起こります。

 

 聖霊による洗礼ということが決定的に重要なのです。それがない限りどうにもなりません。

 主の霊の満たしというのは、神の言葉が数限りなく反芻されている人のところで起こります。

 

 人間、嘘偽りなく、一日の内にどれだけ回数と時間、なにかと接触するとか思うとか、行動するかということがその人自身となっていきますよね。

 

 人間ってすごいなぁと、神様がおつくりになられた人間の力って半端ではないと思います。

 自分が告白する言葉の方向に自分自身を仕向けるというか、導くというか、足を運ばせるというか、そういう力があります。その人が発している言葉の通りになりますよね。御言葉を受け止めて、その内容をそのまま告白している人たちってその通りに歩みになっていく。

 しかし、御言葉を受け止めて、いやぁ、こんな難しいこと書いてあって、受け止めきれないな、私は受け止めることができるところだけって、それははじめの内はそうならざるを得ませんよ。

 しかし、いつまでたってもそのようなところにいると、確かにその通り、ずっとそのままという形になります。

 いやぁ、恐ろしいですね。人間は自分が告白した言葉の通りになります。

 だから、聖霊による洗礼を授けられる。私が黙想する中で。と、それが主の約束の言葉であると、本当に信じて、それを反芻する人のところではその通りなりますね。だから、大切なのは、御言葉をそのままうけとって、それが信じられなくても、そのことを反芻し続けるということだと思います。だから、時間が必要なのです。

 待っている。黙想の時間が必要なのです。

 

 黙想すると、自分を空にしなければならないことに気づきます。自分の思いによって自分の思いによってと考えているひとは、おそらく黙想は「バカバカしくてやってられない」んじゃないですか。

 だから、黙想の時間があるかないかが、信仰のあゆみをしているか否かに直結しています。

 そもそも自分の力でと考えている人は、黙想なんていう無駄な時間は持たないですよ。待つ時間ももったいないでしょう。

 

 しかし、復活された主は「待っていなさい」と命じておられるのです。

 

 そして、主に期待して待っているもの、黙想しているものには、次の約束が実現します。

 

 ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」使徒言行録1:8、新約209)

 

 聖霊が降るとどうなるのか。「力」を受けます。この力というのは「デュナミス」と記されています。これはダイナマイトの語源である言葉です。小さな種のような何かが強烈な力をもっていくというような意味があります。これはすなわち、極小から極大というような爆発を生み出す力であるということです。

 

 だからこの弟子たちが選ばれたんだ。

 だから、私のようなものが選ばれたんだ。極小から極大の成長を遂げるさまを見せるために。

 デュナミスの爆発を見せつけるために、主はこのような小さな私を選ばれた。

 

 自分の弱さを誇ると言ったパウロの言葉がよみがえります。

 ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(第二コリント12:9、新約333)

 

 キリストの力が発現してくるため、爆発してくるため、私のこの弱さがある。

 

 弱さを自覚せざるを得ないこの私からこそ、主の宣教の業が起こる。それは地の果てにいたるぐらいの強大な力となる。種が発芽して形を得た力というのを「エネルゲイア」と言います。「エネルギー」の語源です。

 その発露を私たちは、やがて自分の内側にある神の言葉から体験することになるのですね。なんという恵みでしょう。

 

 喜んで自らの弱さを誇ろうではありませんか。その弱さは皆様の内側にある聖霊の力、ダイナマイトの力を証明するために必要なのです。アーメン。