2023年9月3日主日礼拝説教 使徒言行録10:1~16「すべての人に開かれる恵み」石井和典

 初代の教会が外国人、すなわち異邦人に向かって全面的に伝道をはじめるのは、このペトロのコルネリウスとの出会い以降です。

 それまでは、教会は基本的にユダヤの民に向かっての伝道しか考えていませんでした。

 不思議なことですが、実際にそうだったのです。

 イエス様が弟子たちにくださった命令というのは以下のようなものだったのにです。

 ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」使徒言行録1:8、新約209)

 それは、彼らがこのイエス様の言葉に対して不忠実だったからということではなくて、彼らはもちろんこの御言葉に忠実に従っていました、しかし、順番があったのです。

 イエス様の言葉をちゃんと見てみると、エルサレム、そしてユダヤサマリアの全土というのは、かつての南ユダ、北イスラエルという意味、イスラエル全体、そこから地の果てに至る証人が生み出されるということがわかります。

 だから、まずユダヤの民に対してというのは神様のビジョンでもあり、彼らがまず考えていたことです。だから、全世界に出ていくタイミングというのは、どこで訪れるのか、それは彼らにはよくはわかっていませんでした。

 

 その時は、突然にやってきます。それは彼らに予測もできませんでした。

 

 ローマの兵隊のコルネリウスとの出会いによって意識が開かれていきます。それまではどうしてもなかなか開くことができなかった。というのも、ローマ人との交わりというものをユダヤの人たちは絶っていたからです。食事もしなかったようです。そのことはペトロ自身も言っています。

 彼らに言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、訪問したりすることは、許されていません。けれども、神は私に、どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、ためらわずに来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」使徒言行録10:28、29、新約229)

 これほどに、ユダヤの民と、外国人との間には溝があったにもかかわらず彼らが近づくことができました。特別なことです。人の視点ではありえないことだったでしょう。しかし神が道を開いてくださいます。

 どんな方法で道を開いてくださるのかというと、「祈りの中で幻を見せてくださる」ことによってです。この幻が決定的に重要なわけですが、その幻が与えられる時というのは、祈りをささげている時であったというのです。

 だから、いつでもどこでも、信じるものたちにとって決定的に重要な行為は「祈り」であることがわかります。教会が立ち上がって行ったペンテコステの時だって祈りです。

 

 ユダヤ人クリスチャンペトロと、ローマ人の信仰者コルネリウス

 この二人をつなげなければならなかったわけですが。

 そのつなぎ目は、「祈り」。

 

 祈りの時がつなぎ目になるということはどういうことかというと、神様ご自身が、そのつなぎ目となってくださるということです。

 どうやったって二人には理解し合えないような壁があった。近づきさえしないはずだったのですから。

 彼らは文化も伝統も違いますし、何よりも違うのは、彼らの間には先入観、バイアス、偏りがあって、どうにも近づけなかったわけです。しかし、神様が幻であられてくださって、御業を起こしてくださるのです。

 だから、祈りが要です。神様との交わりが要です。イエス様との交わり、これこそが、すべての要であることがわかります。このお方のところにいけば、物事が氷解するように秩序が与えられていく。出会いが与えられて、命がはぐくまれ、物事が起こって行く。

 そうでなかったら、人間は自分のテリトリーから逃れられないのです。自分のバイアス(偏見、偏り)から抜け出せずに、自分の思い込みの中に落ちていく。

 

 自分の住み慣れたところから出るということがどうしても必要なんです。神の御声を聞いて人生を生きなおすということのためには。信仰の祖と言われるアブラハムも旅立ちました。

 住み慣れた場所を離れないと信仰の歩みはできない。当時の世界では引っ越すというのは命がけ、命を失うことをも意味するような大変な試練で、捨て身の敢行と言っていい内容です。

 人間はそのままでは、自分の住み慣れたところから出ない。

 神に祈っているようで祈ってはいない。

 神のテリトリーに出ていくのが祈りなのに、自分の世界から出ない。そんなときがあります。そんな時は神の御業を目の当たりにすることがないわけです。だから、顔色が暗くなります。一目見てわかります。

 

 しかし、祈りの中で壁が崩されていくことを経験するのです。

 

 イエス・キリストの御名による祈りの力。

 それは外に向かって、新しい世界に向かって私たちを押し出していく力となる。

 目が開かれてしまうのです。しかも、そこには恵みが沢山。神様が驚くべき出会いをご準備くださる

。心を開いて祈っていくと、自分の内側に革命的な変化が起こされ、見るものが全く変化してしまう。

 ローマの兵隊??信仰などないでしょ。真実など求めてないでしょ。神なんか求めてないでしょ。そんな風な先入観は吹っ飛ばされてしまうのです。

 そこから、新しい世界が開かれる。

 

 目の開かれたペトロたちは、コルネリウスの家族に対する視点がものすごく暖かいものへと変わっていったに違いありません。

 というのも、コルネリウス一家に対する聖書の記述を読んでください、このようにコルネリウスを描くわけです。

 敬虔な人で、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。使徒言行録10:2、新約227)

 この表現一つ一つに暖かみを、愛を感じざるを得ないです。

 コルネリウス一家を大切に大切に。このコルネリウスの家族をこのクリスチャンの共同体は抱きしめていったことがわかります。

 

 信仰によって行動し、これまで見なかったものを見るようになり、自分の世界を抜け出していった人たち、その交わりによって命が育まれていく、そのありさまというのは、このペトロとコルネリウスの家族の間に見ることができると思います。

 信頼をささげあい、祈りの中に入って行く。その祈りの中で出会いが与えられ、先入観が打ち砕かれ、まことの出会い、まことの神の民としての交わりがまっている。

 そのためには、祈りの中に入って、自分の思いを捨てないといけない。

 

 ペトロは自分の思いを捨てなければなりませんでした。

 汚れたものを食べてはいけないし、汚れたと判断されてしまった人と交わってはいけないと思って生きてきました。

 しかし、自分が敬遠してきたもののところに神がご準備くださった最高の出会いがありました。その壁を突破するための幻を(ビジョンを)主がお見せくださいます。

 とてもユーモアにあふれた幻です。コルネリウスに同時期与えられた幻は、神様からの語りかけというシンプルなものですが。ペトロに与えられた幻は強烈です。

 屋上に祈るために上ったら、そこで空腹を覚えたと。

 すると、天が開いて大きな布のような入れ物が四隅をつるされおりてくる。その中には、旧約聖書の戒律からすると食べちゃいけないものがことごとく入っている。しかし、神が命じるのです。「食べよ」と。その食べよという御声にペトロはこのように応えます。

 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物など食べたことはありません。」使徒言行録10:14、新約228)

 そうすると、このような声がかえってくる。

 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない。」使徒言行録10:15、新約228)

 

 私たちの思いが、神様の恵みがあふれ流れることを徹底的に邪魔してくる部分があります。

 もう、みんなでこういうものをつくっている。ペトロだって自分でこのような先入観をつくったわけじゃないですよ。みんながそう言っているから。みんなそう考えているから。親の代から受け継いできたことだからです。

 ユダヤの民がみんなローマの兵隊を区別し、差別しているから。

 だから、その流れにのって、神がそこにお働きになるということが見えないでいたわけです。

 しかし、彼の目が開かれます!

 

 そうやって目が開かれると、コルネリウスの家族を抱きしめていくような暖かさが開花して、受け止めることができるようになっていくわけです。

 神様のお取り扱いがある、見捨てられていると考えられているような人、その人に神の業が起こる。イエス様の癒しが望む、祈りの中で、主と向き合う人々が示される。

 そのイエス様の思いに自分自身を重ねると、人を見る視点が変化する。

 

 ローマの兵隊、異邦人、理解できない人、野蛮な軍人。そういうことが全部覆されます。実際コルネリウスは一日の三度の祈りを欠かしたことがないような素晴らしい人、そして家族全員がこのコルネリウスを尊敬して、皆がその信仰にあずかっているような人たちだったのです。信頼によって家族関係を気づいていた、すばらしすぎる人です。

 ペトロの目が開いてなかっただけでした。見るべきものを見ていなかっただけでした。しかし、祈りの只中で幻が示されて、目が開かれるのです。

 

 実は、人をどのように見ているのか、それこそその人の信仰の実力があらわれている。

 

 そりゃそうです。神様にどのように扱われたのか、そのことと同じことを人は人に対して必ずします。

 ペトロさんにこうやってねんごろに手取り足取り、かかわってくださって、空腹の時間を使ってくださって、空腹に関係したユーモア一杯の幻をみせてくださって、本質的に重要な主の愛を見せてくださるのですから。それが神様。その神様の思いを経験したら、同じように人に接するようになっていきます。

 ペトロもユーモアたっぷりに、憐れみ深く、理解できない人たちも理解できるように忍耐強く、神様に大切にされたように、人をも同じようにせざるを得ない。

 

 だから、結局神様にどのように扱われたのか、どのような恵みを受けたのか、どれだけ愛されたのか、その本質的に重要な内容を徹底的に、一身に見つめているかですね。

 

 それが隣人に対する態度の中にもろにでているのです。だから、信仰の成長は、あなたが一番嫌いな人をどう見ているのかです。

 その視点が主が私をみてくださったものと同じようになっているのかどうか。

 そこに、信仰を本当に生きているのか、おざなりにしているのかが出ています。

 

 ローマの軍人の向こうに神が見えるか。私たちとかかわるあの人の向こうに神が見えるか。その視野が見えるように、主イエスのところにかえって、十字架の御許でお取り扱いを十分受け取ってくださいね。十分受け取れば、自然となすべきことがわかります。受け取っていなかったからわからなかっただけです。難しい話じゃない。ちゃんとプレゼントを受けとってください。アーメン。