次週の主日礼拝

クリスマス礼拝
2023年12月24日(日)午前10:30~11:50
説教「主があなたの人生の中で大きくなる」石井和典牧師
旧約聖書イザヤ書7章13~17節
新約聖書ルカによる福音書1章46~56節


≪聖書研究祈祷会≫
12月20日(水)午前 なし 午後7:00~8:00
聖書:創世記20章1~18節
祈祷題:「讃美礼拝・クリスマス礼拝のために」

 

○クリスマス讃美礼拝は12/24(日)午後6時からです。積雪の際は園庭や会堂横の駐車場が使えませんので公共交通機関をご利用ください。
○讃美礼拝後、集会室に温かい飲み物等がありますのでどうぞ交わりのひと時としてください。

次週の主日礼拝

2023年12月17日(日)午前10:30~11:40
待降節第3主日礼拝
説教「神の国に入る」石井和典牧師
旧約聖書:創世記12章7~9節
新約聖書使徒言行録14章19~28節


<礼拝前の黙想のために>
 同じ空間を共有しているように見えても、全然違うものを見ているものだと気づかされます。ある人は常に人の成長を見守り、ある人は常に人の負の側面を探す。強烈に両者の間に溝がありますが、同じ人を見ていて全然別の方向を見ていたりします。
見ている世界、生きている次元、向かっている方向。そのすべてが実は自由なのだと気づかされます。起こってくる現象の出来事は一緒のように見えるのに、ある一人の人のフィルターを通すと、全然別世界が展開されていきます。
聖書の目をもって物事を見ようと日々取り組んでいると、今まで見ていなかった視点が見えてきます。それは神の視点です。当然、神の視点は非常に大きなものであり、愛がそこにあります。
今まで冷たい情報にしか思えなかった自分の人生の負の側面でさえも、主の光に照らされると、全然見え方が違ってきます。私が成長させられるための重要な要素が常に与えられる、主の御手の内側の出来事になります。思い込んできたことすべてが変化します。  (石井和典)

次週の主日礼拝

2023年12月10日(日)午前10:30~11:40
待降節第2主日礼拝

説教「足の不自由な人を癒やす」石井和典牧師
旧約聖書出エジプト記15章22~26節
新約聖書使徒言行録14章1~18節

≪聖書研究祈祷会≫
12月6日(水)午前10:30~11:30 午後7:00~8:00
聖書:創世記19章23~29節
祈祷題:「クリスマス集会のために」

<礼拝前の黙想のために>
主は私たちを憐みで包んでくださいます。だから、安心して自分自身の本当の姿と向き合うことができます。主のご愛がなければ、自分の汚れと向き合うことはできませんでした。癒やされる、慰められる、回復される。という前提があって、はじめて心を開くことができるのだと思います。そうでなければ、自分を守るための行動に固執しつつ、自分を開くことができないのだと思います。幸いなことに、メシア(救い主)はその柔和さをもって私たちに望んでくださいました。私たちは自分自身を閉じなくて良い在り方へと導かれました。それゆえに、主のお取り扱いを受け、日々成長と発展の歩みを遂げるように方向づけられました。
にもかかわらず、停滞しているというような状態になりやすいのもまた私たちです。主に対して自分を開いた状態ではなく、閉じこもった状態へと戻ってしまいます。でも、また開けばよいのです。何度も何度も。帰ればよいのです。(石井和典)

2023年11月12日 主日礼拝説教 使徒言行録13:1~12 「宣教の使命と力」 石井和典

 アンティオキア教会から素晴らしい働きがはじまります。パウロバルナバという弟子たちが、非常に重要な働きをします。

 パウロのことを支えて教会に迎え入れることができるようにしてくれたのがバルナバでした。というのも、パウロはもとはクリスチャンを迫害するもの。クリスチャンを何人も殺すことに賛同していた人でありました。その殺されてしまった一人がステファノでありました。そのことに賛同していたと聖書には記されています。

 殺人に賛同する人を教会が迎え入れるわけにはいかないでしょう。

 しかし、彼が神の御前で回心し、変わったことをバルナバさんはよく見ていたのです。パウロさんの言葉を見ていくと、「自分が罪人の頭」であるという言葉が出てくるのですが、非常に印象的ですし、皆の信頼を最後の最後まで守り抜くお方でしたから、常にこの自分こそが一番下で仕えるものであるという意識を持ち続けたことでありましょう。

 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(テモテへの手紙Ⅰ 1:15、16、新約375)

 だから、すべての人が信じて信仰のみによって神の国の民となるために、私という一番最悪最低な、人を間接的に殺したことさえある罪人の中の罪人、罪人の頭の私を選ばれたのだと言っているわけです。これは明らかに、パウロのトラウマ的な出来事なのですが、しかし、これは聖なるトラウマです。彼が最も低きものとして働き続ける力、そして、やがて自分が殺そうとした人たちとも天でお会いするのだという視野になっていったのだと思います。

 パウロさんからは、手紙を読んでいて、無尽蔵の力を感じますが、その秘訣はこの低さにあったのだと思われます。低いところに彼が常にひざまづいて、それゆえに、主の命の泉はこの低きところに徹底的に流れ続けるのだということです。

 

 さらに、本日の聖書箇所を見ていると、バルナバさんとパウロさんたちは「断食して」礼拝していたと記されています。それは、肉の自分を捨てていく行動です。断食といっても全部「食」を絶ってこんりんざい一切なにも食べないというわけではないので。一つの象徴的な行動ととることができます。しかし、そこに表れる礼拝的な意味は非常に深いのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従え」とおっしゃられた主イエスの言葉に従う行動です。

 すなわち、肉の自分を超えていくこと。肉を捨てる意識を持つこと、自我を捨てる意識をもつこと、神の御前にすべてを降ろして、礼拝するということです。

 

 多くの人を見てきて、また自分もキリストの道を求めるものとして沢山の失敗を犯し躓いてきましたが、その中で見えてくるのは、究極的な問題は「自我」であるということです。

 自分に固着し、固い石地となって主の恵みを受け入れられないということです。

 多かれ少なかれ、こういうことが起こっているので、成長しないし、力を感じ取れないということが起こっています。争いも共同体の中でよく起こりますが、すべて自我の衝突です。

 だから、肉に死ぬという象徴的な行動である断食が非常に大きな意味があるわけです。断食を実際にするのも良いですが、祈りの中に身を投じていくということ、人生を投じていくということが断食的な祈りを実現していきます。

 すなわちその中身は「自分を捨てる」ということです。イエス様がこうおっしゃった言葉に従う行動です。

 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。(マタイによる福音書16:24、25、新約31)

 自我を捨てると、それで不思議にも命を得ていくという道。主に対して自分のこだわりを捨てると、主によって満たされる道が開かれるのです。自我を捨てていない人たちは争いの原因によくなります。弟子の筆頭であったペトロは、イエスさまから弟子の筆頭として任命されますが。天国のカギを持っている男とされますが。

 同時に、「サタン」とも一度言われてしまった人でもあります。それは、彼が「自我に固着していたから」です。イエス様が死ぬなんてありえないって言ったのです。

 で、この気持ちってよくわかります。人情としては、師匠であるイエス様が死んでしまっては、メシアであるイエス様が死んでしまっては。ローマ帝国から解放してくださるのがイエス様なんでしょうってペトロは思っていたわけです。

 だから、イエス様が死ぬということはペトロは絶対に受け入れられなかった。

 イエス様に、十字架なんてあってはならないことですと言ってしまうのです。しかし、その神の計画を見ない、自我に固着したものが「サタン」なわけです。サタンは、神のご計画を台無しにしようとする。しかも多くの場合、人間の肉に、自我に、その人がこう思うというような自分の思いに固執させて、それで神が与えようとしている命から落とそうとしてくるわけです。

 これってよく起こっていることです。

 私が今まで自分の中で経験してきたことです。神様がお考えのことではなくて、自分が考えていることにこだわって、それを誰かにぶつけて、自分の正義をぶつけてそれで相手を裁き、その結果その人の内側で神の業が起こるということを見ないで、争いが起こって行く。

 そういった自分に固執するような状態はサタンの手のうちにあるということなんです。

 

 だから、自分の肉に死ぬような断食的な祈りが極めて重要なのです。 

 特に神の御心に従っていくときには、自分を捨てないといけませんので、実際に初代の教会の弟子たちは、断食したわけですね。そうすると、聖霊が告げました。聖霊というのはクリスチャンの内側に内住するキリストの霊です。イエス様のご命令として、心の内側に次のような言葉が響いたわけです。

 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」使徒言行録13:2、新約233)

 

 神の力によって押し出されていった使徒たちは非常に強烈な力強い働きをすることができます。

 

 パウロたちは、聖霊に送りだされて、キプロス島に渡っていきます。そこには、すでに、信仰を受け入れようと待ってくれている人たちがいます。それも聖霊なる神の御業です。

 信仰は人間の力でコントロールできません。しかも、なんとかクリスチャンたちの発する言葉を聞こうと待っている総督がいるなどということ。そんなことパウロバルナバには準備できることではありません。しかし、そういう信仰に入って行く人が準備されて待っているのです。

 

 不思議ですね。神の御業って、向こうで待っていてくれるのです。

 

 でも、確かにそうです。教会に導かれたこと。これは神がここで待っていてくれたから実現した内容です。私は教会に自ら行こうと思っていたというよりも、状況が整えられて導かれていったということのほうが正しい。大学時代に教会に通うことになりますが、教会に私の友達となってくれる人、しかも、聖書をちゃんと読めと行ってくれる人がいたのです。だから牧師にまで導かれたんですね。あの友が、聖書なんて適当に読んでおけばいいよなどと言っていたら、私は牧師になってないんじゃないでしょうか。

 しかし、そういう人が準備されていたのです。という形で、すべての人におそらく神のお膳立てがある。

 しかし、そこには葛藤と戦いも同時にやってくることになります。総督セルギウス・パウルスという人はキリスト信仰を聞こうとしているのですが、バルイエスという魔術師が、邪魔して聞かないようにしようとするのです。

 人が信じようとすることを無にしようとして、キリストから離れさせようとする力が常に働きます。信じる行動ではなくて、信じない行動をとらせようとする。神の方に目を向けさせるのではなくて、そらせようとする。主イエスのお姿に近づいていくのではなくて、離れさせようとする。

 その人は、あろうことか「バルイエス」という名でした。ヘブライ語で「イエスの子」という意味です。これが偶然なのかメッセージなのか。

 まがい物が現れて道をはずして、恵みにあずかれないようにしようとすることが起こるのです。 

 

 しかし、聖霊に、キリストの心に満たされていたパウロは、それが悪霊にコントロールされてしまった人の行為であるということを見極めることができました。命に近づけるのではなくて、遠ざけることがどういうことなのか。聖霊に満たされているとその判断がつくのです。そして、その歩みをパウロはこのように言い放ちます。

 「ああ、あらゆる偽りと不正に満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、誰か手を引いてくれる人を探した。使徒言行録13:10、11、新約233)

 正義というのは神さまだけがお持ちの正しさです。正義というのは、神に向かう人しかわからない。正義というのは正しい中の義さですから。それは人間が持ちえないものです。だから神に向かってその義しさを問うというか、聞くということ、その主から義しさが注がれてということしかありえないのです。

 しかし、このエリマという人、バルイエスという人は、イエスが間違っていて、自分が正しいなどということを言って、自分にひきつけようとしてくるわけです。自分のただしさに人を引き付けてくる人たちって皆同じような行動をとりますね。不信感を煽って、本質的に大切な情報から人を離そうとしてくるのです。人の方に人を引き付けていくようなよこしまな道というのは、どんなものでもよこしまです。

 主イエスに結びつくことがまっすぐな道です。それ以外で人をしばりつけていくもの。正義がまるであるかのようにみせてくるものは偽りです。

 そのよこしまなものにはやがて主の裁きが降るのです。時間が経つと明らかになります。何が主が喜ばれて、何が主がお嫌いになるのか。この時は、非常に即座にその場で、パウロの口を通して裁きが宣言されましたが。まさに、その通り主の裁きが降るのです。

 しかし、そこでも導かれべき人は導かれます。この総督セルギウス・パウルスという人は、どうしても導かれるべき人でありました。だから、主が真実を見せ、必要な言葉に触れることができるように主が導かれます。

 

 私たちは、本当に安心していいことがわかります。「心のそこから神を真実に求める人」に対しての主の導きというのは、どんな妨害が入ろうが、どんな障害があろうが、それを乗り越えさせる主の御業が起こるということです。

 

 だから、何より大事なのは、純真に純粋に、ご自分の心の底からの叫びで主を求め続けるということです。

 そうすれば、主が道を作ってくださり、すでに主ご自身がお膳立てしてった道が示されていく。

 

 あらゆる困難を乗り越えるために必要な助け、導き手を与え、確実に皆様を導き抜いてくださるということが明らかにされる。

 

 信じる人たちに満ちるのは、「驚き」と「喜び」です。

 こんな私にもかかわってくださり、導いてくださるのだと。何があってもその手を離されるお方ではないのだという確信です。

 悲しいことに、この妨害するものたちというのは、信じれば良いのに、信じないで妨害し自分に引きつけようとしました。

 こういう人たちは、信じるものたちの信仰を徹底的に強めるスパイスのような役割をして、消えていくものでしかないことがわかります。

 

 ただひたすらに自分の心で求めましょう。そうすると、主の導きが開かれて見えるようになります。妨害の手さえ、皆様の信仰を強める道具とされます。アーメン。

2023年11月5日 永眠者記念礼拝   ヨハネによる福音書11:17~27 イザヤ書49:14~16 「主のもとに刻まれいのち」石井和典牧師

 神に忘れられた人などいません。神の導きが驚くほどにあったはずです。

 神の導きがなかった人などいません。人間の側が神を忘れて神を見過ごして、見落として、忘れてしまうだけです。

 主はご自分の民に対して宣言なさいます。

 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても私はあなたを忘れないイザヤ書49:15、旧約1128)

 母乳を与えている母親は自分の子どもを忘れることは決してできません。お乳を与えなければ胸が張って痛むのです。一瞬たりとて忘れることはない。

 その母親よりももっと深い愛で、信じるものたちをつつみこんでいると、神は宣言なさっておられる。

 憐みというヘブライ語には「自分の胎を痛める」という意味もあります。だから子どもと一心同体として、子どもの痛みを自分の痛みとする母親のような愛をもって。それ以上の愛をもってと本日のところには宣言されています。それが神の愛であるということです。

 私は大阪のぞみ教会時代に、墓地を池田の五月山というところに建てましたが、その時の墓地のイメージはこのイザヤ書49のイメージで造りました。墓碑が両側にあって、それはイエス様の手をイメージして、イエス様が信徒の名前をご自分の手のひらに刻み付けてくださっているという感じです。

 罪人である人間は、愛に生きるって言ったって、何かの拍子に自分を守るために手のひら返しをして、この人は違うってすぐにいいはじめます。

 しかし、天の父なる神は違うのです。手のひら返しはしない。手のひらに私たちを刻み付けておられるので、とことん私たちのために胎を痛めて、ご一緒に苦しんでくださるのです。

 

 それが十字架の御業です。そこまで主がなさるのですかという業です。私たちの罪の汚れのすべてを背負われ、ご自分が犠牲となられて死ぬということが結論。

 その結果、主イエスの御業を信じるものたちは皆救われるのです。ここにすべてをかけるのが教会。主イエスの心にすべてをかけるのです。

 

 ただ不思議なことに、イザヤ書の時代のイスラエルもそうですが、神に守られているはずが一度滅ぶということを経験します。新約聖書ヨハネによる福音書もそうですが、ラザロは一度死にます。そこから復活します。

 人間が抱えているものは、一度無に帰するような状態にさせられるということが起こって、そこから回復、復活の道のりをたどることになります。完膚なきまでに破壊されてとか、打ち砕かれてとか、そこまでいって人は神の力を本当の意味で悟るということが起こるのでしょう。

 そこまで、主は忍耐して待っておられるのです。

 だから、人間の死がすべては取り除けられることはないのでしょう。最後の最後で主に信頼をささげる訓練のためです。

 

 本当に信頼を主にだけ、信仰にだけ置く。そこに至るまでの道のりに何があったとしても、至ることができるように信じるものたちに試練を与え、その試練を超えることで、真に主を信頼する信仰にたつことができるように導いてくださるのです。

 

 聖書は、はじめから最後まで「信仰のみ」です。信仰の祖であるアブラハムという「すべての国民の父」という意味のはじめの人、この人は、なぜ神によって義しいと認められたのかというと、「信仰によって」です。そのことがこういう言葉で残っています。

 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6、旧約18)

 

 このお方だけが、信頼に足る、信じる、この方が私の決め手。私の頼るべきかた。何があってもこのお方にだけ頼る。他の何かじゃないということです。それが唯一神信仰のキモです。このお方だけという信仰です。

 そこに立てるようになるために、試練が与えられ、時に人生が崩壊したかのように見えることもあります。

 ヨハネによる福音書の11章のラザロの記事を見ると、イエス様はラザロが死ぬ前にラザロのところに急行して、死なないようにすることもおできになりました。時間的な猶予がありました。

 しかし、ラザロが死ぬのを待っておられました!

 そして、死んでからベタニアに登場なさり、非常に重要な信仰の言葉を残してくださったわけです。それは後の人間たちがこのイエス様の言葉によって励まされて、力をいただくためでもあると思います。

 

 というのも、私はできるだけこのイエス様の言葉を葬儀で引用するようにしています。以下のような言葉です。後の牧師たちや主を信じるものたちが、常に葬儀で、人生の最悪の場面とも言えなくもないところで、この言葉を引用しつづけることができるようにしてくださったのです。

 エスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」ヨハネによる福音書11:25、26、新約185)

 イエス様が命そのものなんです。このお方とつながることが命です。

 「私はぶどうの木あなたがたはその枝である」と主イエスはおっしゃられましたが、その通りで、イエス様とつながっていることがいのちなのです。

 だから、肉体において死んだとしても、生きるということ。それをラザロの生涯を通して私たちに見せてくださったのです。

 だから、「死んでも生きる」のです。

 肉においては確実に死にますね。しかし、死んでも生きるのです。それを主が宣言さなれ、そのことが事実であることを見せるためにラザロを復活させられました。

 といっても、またその後ラザロは死にました。

 しかし、ラザロは肉においては死にますが、決して死なない世界を知ってしまいました。それは、主イエスが覚えていてくだされば、いつでも肉を復活させることができるし、イエス様が覚えてくださるということは、それは「死なない」ということを意味するのだなということです。

 

 ということは、毎日祈りの中に生きて、イエス様が私を覚えてくださっているという実感しているすべてのひとは、もはや死なないということです!もう、死はなくなりました。

 葬儀の後、火葬前式で私は必ず以下の御言葉を引用します。ヨハネ黙示録の言葉です。

 そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:3、4、新約464)

 ここで宣言されるのは新しい天と地における、死のない世界。新しい創造を味わう世界。だから、異次元の言葉というか、後の世の言葉と言えます。

 しかし、クリスチャンたちはこの世界を、自分の命の中で味わうのです。

 「もはや死はない」という世界です。

 私は、イエス様がおっしゃるのですから、信じるものたちには「死はない」と思います。私を信じるものは死んでも生きるとイエス様が宣言されているのですから。イエス様が宣言なさったことで、裏切られたことはありません。

 

 なにより大事なのは「信じるものは」ということです。人類のはじめの時から変わらず、「信じるもの」が義と認められ、主の御許に導かれるのです。これは変わらない。信頼によって命に結びつくのです。

 信頼がないと命が生まれ、はぐくまれ、育てあげられて継続されていくということは起こりません。

 共同体の最小単位の家庭においてもそうですし。男女間においても信頼関係がなければ子どもを健全にはぐくむことは不可能です。

 だから、はじめから信じることがすべてなのです。信頼は命、命は信頼。信じることです。命とむすびつけるのは、信じるということです。

 

 主イエスを信じ、結びつくことによって復活していく命。回復、癒し。

 これらが人生の只中で経験されるようになります。私の人生が回復されます。どれだけ壊れてしまっている状態であったとしても関係ありません。

 

 というか、イザヤ書の預言というのは、国が崩壊し、焼け野原という時代の預言です。もう何もなくなってしまったところからのスタートの預言です。

 焼け野原になってしまったから、民は叫ぶわけです「わたしの主は私を忘れられた」のじゃないかと。

 でも、そこからスタートできる世界があります。忘れられてしまったかのように思える絶望の地点というのは、もう人間の力ではどうにもならないと思えてしまう地点でしょう。

 人間の力ではどうにもならないことに気づくことが大切なのです。そこまで、主は気づくために待っておられたのかもしれません。

 本質的に大事なことを見失って全部失うところまで。私たちが別の方向をむいてしまっていて、その結果すべてを失うような大失敗の中に放り込まれてしまっているのかもしれない。

 しかし、それでも。主の親心は、父の心は、母の心は、信じるものたちから離れることはありません。

 あるとすれば、私たちが自らの意思で主をいらないと言い切るときです。

 

 主に聞くこともせずに、聖書に聞くこともせずに、自分の思いだけで、物事を判断し、行動するようなとき。その時には、自ら主を捨ててしまうということになります。しかし、何度でも私たちが帰るのならば道があります。何があっても絶対に見捨てられることはありません。それがイスラエルの歴史からわかります。

 

 イスラエルの民というのは、見捨てられてもしかたがない罪を犯し続けました。聖書の言葉を脇においやり、旧約聖書を忘れ、神殿の中には唯一の神ではなくて、自分たちの欲望の投影である像が置かれていきました。

 その結果、主が啓示してくださった預言者たちの言葉などはどこかに吹き飛び、神殿は魑魅魍魎の闊歩する、神様とは全く関係のないような、わけのわからないごちゃごちゃな状態になりました。そして、力を失いました。力を失った国は崩壊しました。

 

 こういう民は見捨てられてしかるべし、と言えるかもしれません。しかし、不思議とこの民の中に信頼に生きるものたちが残されていく。

 それでも信頼に生きて、神が救いの御手をさしのべてくださるという、神の憐れみに徹底的に立つものたちが、神のご性質とはこうだったねと思い出すものたちが現れてくるわけです。その小さな小さな一人から、驚くべき改革と驚くべき復活と、驚くべき癒しが流れ始めます。

 

 信頼に生きる者たちが残していったことばが本日朗読したイザヤ書なわけです。

 主がどういうお方だったのかというところに立っています。

 母親のようであり、いやそれ以上の深い憐みを胎を痛めるような子どもに対する愛をもってられて、何があっても私は忘れられることはないのだと。だからこの主にすべてを委ね、すがって立ち帰ろうと。

 

 するとどうでしょうか。主がこれまで失ったものすべてを回復させて、復活させてくださるというのです。

 

 あなたが失った子らが再びあなたに告げるであろう。「この場所は私には狭すぎます。住む場所を与えてください」と。イザヤ書49:20、旧約1128)

 

 失って失って失って、回復不能なまでに崩壊して、そこに一つ信頼の芽が出始めると、驚くほどにすべてを覆いつくして、溢れだしてくだしてくるような成長をとげる出来事が起こる。

 現代における、1340万人のユダヤ人(今日朝調べたら1400万人になっていました)、そして24億人のクリスチャンの存在。それらがこの主の回復の力を現代に物語っています。

 

 主への信頼があれば大丈夫なのです。しかし、それをこそ失っている。別の何かを自分という神殿の中心に置いている。そこから立ち直って、神殿の内側が掃除されてきれいにされ、本当に置くべきものが置かれ、主への信頼が中心になったとき、すべてが回復され、命の萌芽を目の当たりにすることができ、ここでは住む場所が狭すぎますとばかりに、命が溢れてくる。その時を見るために、私たちが召されていることを思い起こしましょう。アーメン。

 

2023年10月29日   主日礼拝説教 使徒言行録12:13~25 「祈りの結果と傲慢の結果」 石井和典

 ユダヤヘロデ王は、クリスチャンを処刑するとユダヤ人が喜ぶのを見て、繰り返そうとします。ヨハネの兄弟ヤコブを剣にかけ、教会のリーダーであったペトロをも殺そうとしました。

 ペトロは牢にとらえられ、いつその刑の執行がなされるのかという状況でした。

 そこで教会の人々は祈りをささげ続けました。ここが教会の要です。主に信頼をおいて、祈る。すると出来事が起こる。

 

 祈りの結果、天の父なる神が、天の門を開いてくだり、天使を送り、天使が牢獄に捕らえられたペトロの鎖をほどきました。

 絶体絶命の現実というか、誰も助けることができないような万事休すの状況。絶対権力者が目をつけ、その武力によって一人の人間を押しつぶす。恐ろしいことに2000年前は簡単に行われてしまう時代でした。

 人々が祈ったところで、だれがこの現状を変えることができる?しかし、祈りは聞かれるのです。

 

 主の御心にかなった祈りは、何がなんでも聞かれる。奇跡が起こされ聞かれる。

 ということがこの箇所からよくわかると思います。

 

 だから、大切なのは主の心に私たちの側が入って行くということであることがわかります。

 私たちの自我の欲求を祈るということではなくて、主が願ってくださること、主のおこころを私たちのこころとして祈るということです。それはまた、「神の力に信頼して祈る」「神のご愛に信頼して祈る」「神の全能の力を信じて祈る」ということでもあります。

 教会はこの信頼、信仰のみによって動き出すということがわかると思います。

 この神への信頼がなければ祈り始めませんし、諦めてしまったら、主の驚くべき御業を目の当たりにすることはできないのです。

 

 神の御心が結実するまで、耐えて耐えて耐えて祈り続ける。

 これが本来の教会の姿です。

 ペトロが牢獄から出てきて、皆が倒れるほどに驚いて喜んで涙して、神の栄光を仰ぎ見る。ここまで耐えて耐えて耐えて、祈らなければなりません。

 

 祈りの結果起こることは、「祈ったものにだけわかる奇跡の中の奇跡」が起こるということになります。ペトロのために祈っていた人たちは、倒れるほどに喜んで「気が変になったのではないか」というぐらいに驚きの渦の中に入れられます。

 

 迫害の手が強くなればなるほどに、そこに働く神の御手と奇跡は鮮明になります。だから、言い換えると、世に起こる迫害は信仰復興していくための前兆とも言えます。これまでも教会の歴史を見ていきますと、迫害が沢山起こりましたが、迫害は教会を滅ぼすどころか、つねに逆。教会は迫害で復活していく。一人一人の信仰が復活していく。

 

 危機があって、戦いがあるところで、信仰というのは研ぎ澄まされていく。もう、これは実感をもってよくわかります。つらい思いをしている時にこそ、信仰が成長します。聖書の言葉が強烈に響き始める時は、本人にとっては苦しいこと、試練ともいうべきことが取り囲んでいて、四面楚歌の状況に追い込まれているときです。

 強烈に主の力が働き始めるのを目の当たりにするのです。ペトロが牢でそれを実感して、はたとわれにかえってこういったようにです。

 その時、ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」使徒言行録12:11、新約232)

 

 迫害というのは、いつの時代もどんな時もやってくるときはやってくる。表面上迫害のように見えなかったとしてもやってきます。

 迫害は、命を奪い取るものです。非常に冷徹で、欲望のために人を犠牲にする形で迫ってきます。寒々しいものが、強烈に迫りくる。そこには対話も何もありません。ただ、ひたすらに力によって押しつぶし、人の欲望が全面に、自我が全面に、その結果誰かの命が握りつぶされていく。

 ヘロデの姿をみてくだされば、その姿がどんなものかわかります。

 

 人間っていうのは、恐ろしいものです。

 生存本能にもとづく保身のためならば、簡単に暴力的になる。

 自己防衛のため、家族を防衛するため、いろんな理由で、自分を守るために暴力的になります。そこに神の前における不義があったとしてもどうでもよくなる。民の歓心を買うために人を殺すということが神の前にゆるされることかどうか。問うまでもありませんが、「自分の人気が保てるならば」狂気を行ってしまうのです。

 ヘロデも建前上は旧約聖書を信じる信仰者です。しかし、神を信じてはいません。信じていると言いながら実際には信じていないということはいたるところで起こっています。クリスチャンですっていったって本当に主のご存在を信じていなかったら中身はクリスチャンじゃありません。ユダヤ人って言ったって、神を恐れていなかったら中身はユダヤ人じゃないです。ヘロデは中身を失ったユダヤ人だったわけです。

 ペトロの牢を見張っていた番兵たちはその怠慢と失態ゆえに、ヘロデによって殺されてしまいます。

 

 本日の箇所の12章20節以下は話が急に変化して、ティルスとシドンの人々とヘロデとのやり取りになっていきます。このティルスとシドンの人々はヘロデに経済的に助けられていたようです。どういう理由かわかりませんが、ヘロデはこの地の人たちに腹を立てていた。

 で、ヘロデに媚うって、自分たちの思い通りにしたいためか、ヘロデが演説する姿をみて、「神の声だ。人間の声ではない」といってほめたたえたわけです。

 そこで、本来ならばユダヤの王ですから、「神に栄光を帰すべき」立場として神から権威が与えられているのです。が、その立場を忘れ、それは信仰者の王としてすべての栄光を主に帰さなければならないのに、自分に帰されるその栄光を受けて、そのままティルスとシドンの人たちが彼をほめたたえるのをやめさせなかったのです。

 それを神が打ちました。その光景がこのように記されています。

 するとたちまち、主の天使がヘロデを打った。神に栄光を帰さなかったためである。ヘロデは、蛆に食われて息絶えた。使徒言行録12:23、新約233)

 

 神に栄光を帰さなかったということをきっかけに神の裁きが下りました。それまで主は沈黙なさっていたわけです。弟子のヤコブがヘロデに殺されたとき、すぐには主はヘロデに裁きを下されませんでした。

 しかし、主はご自分のタイミングで必ず裁きを行ってくださるお方であることがわかります。

 だから、信じるものたちは何があっても安心していい。

 主は必ず不義を裁かれます。キリストの僕たちに暴力をふるうものを裁かれます。皆様はキリストの体です。キリストの体を壊すものがいれば、そのものを主は必ずお裁きになられます。皆様は主の一部だからです。

 主の神経が張り巡らされていて、時が来れば裁きが下ります。だから、自分で人に復讐することは全く必要ありません。

 そのような思いを抱き続けることによって、人生を棒に振る必要のありません。怒りや、相手に対する呪いは即座に捨て去り、すべての裁きを主にゆだね、必ず主が裁いてくださることに信頼を置くのです。ヘロデという迫害者を裁いてくださるのださった歴史があります。

 安心してその時を待って、忍耐すればいい。自分では手をくだすこととか、復讐することとか一切考える必要がありません。

 そのような信じるものたちの生活の姿を、パウロはローマの信徒への手紙にまとめました。

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙12:19、20、21、新約286)

 怒りを抱き続けるとそれによって、今度は自分が不義を行ってしまうようになります。怒りが膨れ上がっていき、抑えれないほどに暴走する。神に従うのではなくて、自分の怒りに従うようになる。すると暴力的な行動にでてしまっても自分を正当化し続けます。

 だから、怒りを抱いてもその日の内に怒りを捨てないといけません。エフェソの信徒への手紙でもパウロはこのように怒りについてのべています。

 ですから、偽りを捨て、一人一人が隣人に真実を語りなさい。私たちは互いに体の部分だからです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェソの信徒への手紙4:25、26、新約349)

 怒りを抱くことがあっても、というか「怒らないということは不可能」です。

 肉の体に生かされている以上、無理です。しかし、怒りを捨てることは誰にでもできます。その怒りに自分がとどまらず、神の前にすべてを祈りつくすのです。主が必ず正しくお裁きになります。

 しかし、自分の思いを優先してそれを抱き続けると罪を犯します。罪というのは、「的外れ」ということですが。的を当てるということはどういうことかというと、神の方を見るということです。自分の怒りとかそういう激しい思いを持ちづづけていると、それが心の中心になってしまう。すると、的を外しまくるようになります。神じゃなくて、自分になる。

 

 だから、瞬間瞬間、神の御前で自分がどういうものだったのか、そこに立ち帰って我に帰る、ということが特に激しく感情をゆさぶる出来事があったときに大切なのです。エフェソの信徒への手紙には、「神の体」「神の神殿」であるというアイデンティティに帰れと呼びかけ続けるのです。この神の御前における満たされ尽くしている自分ということろに帰らないと、怒りを捨てることが難しいからです。

 この世界に生きる限り、だれかから傷つけられないでとか、害をうけないでとかいう生き方はありません。

 必ず誰かに傷つけられる。痛みを負う。しかし、その時こそ、立ち帰るべきとき。

 「私はキリストの体の一部なのだ」というポイントです。

 だから、もしも信じられないぐらいに傷つけられた出来事があったとしても、それは必ずキリストがご自分の体を守るために反応してくださるし、主のご判断で復讐してくださるかもしれない。

 何かしらの対応をとってくださるから、私はその怒りをおこう。

 これが、パウロが指し示すクリスチャンの生き方です。

 

 ヘロデの姿をみてください。そこにあるのは、「自分の思い」だけです。神を忘れた傲慢さです。

 ティルスとシドンの人たちに対する怒りに燃えるときもある。

 彼らがヘロデをおだてて「神のようだ」っていってあがめてくれたら許してしまったり、全然、神が目の前にいないのです。

 自分の思いだけです。それは信じるものの歩みではありません。

 

 主は傲慢な権威者ヘロデを裁かれました。

 

 キリストが十字架で私たちを勝ち取ってくださったのですから、皆様はキリストと一体、神の体。神殿の一部なのですから、その招きにふさわしくいついかなるときも使徒たちのように、牢獄に捕らわれようが、主がお働きくださることを信じることができる。

 

 祈りの結果起こることは奇跡です。傲慢の結果起こることは主の裁きです。アーメン。

 

次週の主日礼拝

2023年12月03日(日)午前10:30~11:45
待降節第1主日礼拝
説教「異邦人の光としての使命」石井和典牧師
旧約聖書:イザヤ49章6~7節
新約聖書使徒言行録13章42~52節

≪聖書研究祈祷会≫
11月29日(水)午前10:30~11:30 午後7:00~8:00
聖書:創世記19章12~22節
祈祷題:「求道者のために」


<礼拝前の黙想のために>
 聖書+祈る=神の武具を身に着ける
 エフェソ書6章10~20節においてパウロが教えてくれている最強の武器です。我々の武器はこれだけです。これだけで得るべきもののすべてを得ていると言ってもいいでしょう。最高の財産とも言えます。もう他に何もいりません。
これによって、悟りを得ることができるからです。悟りというのは「気づき」「分別」です。主がどう私たちとご一緒してくださり、何が主に喜ばれ、何を主がお嫌いになられるのかを悟ることができ、御心に自分をあわせていくことができるので、神が徹底的にお支え下さるということ。
だから、祈ったことはなんでも聞かれたと思える世界、それを得ることができるということです。
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(マルコによる福音書11:24)
御心を知り、御心を祈ることができれば、なんでもかなえられます。そのためには聖書+祈りです。  (石井和典)